アマデオ1世
Amadeo I
スペイン国王
在位1870年11月16日 - 1873年2月11日
別号アオスタ公(1845年5月30日 - 1890年1月18日)
全名一覧参照
Amedeo Ferdinando Maria di Savoia
アメデーオ・フェルディナンド・マリーア・ディ・サヴォイア
Amadeo Fernando Maria de Saboya
アマデオ・フェルナンド・マリア・デ・サボヤ
出生 (1845-05-30) 1845年5月30日
サルデーニャ王国、トリノ、トリノ王宮
アマデオ1世(Amadeo I de Espana, 1845年5月30日 - 1890年1月18日)は、サヴォイア(サボヤ)朝のスペイン王、及びアオスタ公。イタリア語名アメデーオ1世・ディ・スパーニャ(Amedeo I di Spagna)、あるいはアメデーオ・フェルディナンド・マリーア・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo Ferdinando Maria di Savoia-Aosta)。 サヴォイア家の当主であるサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と、その最初の妃であるオーストリア大公女マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナの次男としてトリノ王宮
概要
1870年、スペイン王国で女王イサベル2世がフアン・プリム元帥により追放されると、正当性を欲していたプリム将軍の請願によりスペイン王アマデオ1世として迎えられ、マドリードで戴冠した。妹マリーア・ピアもポルトガル王ルイス1世の王妃となってカルロス1世を儲けており、揃ってイベリアの王位に関わりを持つこととなった。しかしアマデオ1世の治世は、前王の失政と失脚で勢いを得ていたイベリア住民の共和主義や地方対立に絶えず苦しめられた。加えて、自らを推挙したプリム元帥が暗殺される悲劇も重なり、兄と同じ王位を得たという栄誉からは程遠い、孤独な立場で宮殿に滞在する日々を送った。
1873年、第三次カルリスタ反乱など一層に泥沼化する権力闘争に疲れ果てたアマデオ1世は、スペイン王位からの退位を王国議会で宣言し、マドリード宮を去った。王党派たちがプリム元帥によってイサベル2世と共に追放されていた元王太子アルフォンソ12世を新たな旗印に共和主義と対峙を続ける中、アマデオ1世は元のアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタの名に戻ってアオスタ公としての治世に専念した。
前妻チステルナが亡くなると、ナポレオン1世の末弟ジェローム・ボナパルトの孫娘マリー・レティシア・ボナパルトと再婚したが、彼女の母マリーア・クロティルデはアメデーオの姉であり、従って叔姪婚(叔父と姪の結婚)であった。欧州の貴族界隈でも議論となったが、最終的に教会の判断により許可された。後妻との間にはサレーミ伯ウンベルトを儲けた。
1890年1月18日、アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは43歳の時にトリノ王宮で病没した。爵位と家督は長男エマヌエーレ・フィリベルトが継承した。 1845年5月30日、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男として、トリノ王宮
生涯
生い立ち
1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は空位となっていたイタリア王位の復古を宣言し、サヴォイア朝イタリア王国を開いた(リソルジメント)。これにより兄ウンベルトはイタリア王太子の称号を得たが、本家を支えるというアメデーオ1世の立場には一見して大きな変化はなかった。1867年、適齢期の同格の貴族女性が少なかったことなどが尾を引いて、兄とアメデーオ1世の結婚は中々定まらなかった。結局、アメデーオ1世は家臣筋のチステルナ公爵家からマリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナを妻として迎えたが、当初はより高貴な血筋との婚姻を求めていた父の反対に遭ったという[1]。チステルナとの間には跡継ぎを含む3人の子供が生まれた。
チステルナ公爵家との婚姻