アポロ1号
徽章
ミッションの情報
ミッション名アポロ1号
司令船CM-012
機械船SM-012
質量20,000kg(45,000ポンド)
乗員数3
打上げ機サターンIB型ロケット(使用せず)
発射台ケープ・カナベラル34番発射台(アメリカ合衆国フロリダ州)
打上げ日時1967年2月21日(予定。実施されず)
ミッション期間14日以下(予定)
遠地点300km(予定)
近地点220km(予定)
公転周期89.7分(予定)
軌道傾斜角~31°(予定)
乗員写真
左からグリソム、ホワイト、チャフィー
年表
前回次回
アポロAS-202アポロ4号
太字は、1月27日の火災によってキャンセルされた計画値を表す。
a洋上で機体を回収する任務に当たる予定だったのは、空母USSエセックスであった。
アポロ1号は、アメリカ合衆国のアポロ計画において、1967年2月21日の発射を目指して準備が進められていた最初の有人宇宙飛行計画である。AS-204(アポロ-サターン204)の指定番号が与えられている。同年1月27日、ケープ・カナベラル空軍基地34番発射台上で発射の予行演習を行っていた際に発生した火災により、船長ガス・グリソム (Virgil I. "Gus" Grissom)、副操縦士エドワード・ホワイト (Edward H. White)、飛行士ロジャー・チャフィー (Roger B. Chaffee) の3名が犠牲になり、司令船も焼失した。アポロ1号の名は当初は乗員たちによって任意に称されていたが、1967年4月24日、NASAはこの事故を記憶にとどめるため、正式にこれを計画の番号とした[1]。
火災発生直後、NASAは原因究明のために「アポロ204事故調査委員会」を招集した。出火の直接の原因は究明されることはなかったが、飛行士の生命を奪った要因は、初期型アポロ司令船の設計および構造における広範囲な致命的な欠陥に起因するものであるとされた。これらの問題が修正されるまで、アメリカの有人宇宙飛行計画は20か月間中止された。
この計画で使用される予定だったサターンIB型ロケット (SA-204) は、後に月着陸船の最初の無人飛行実験であるアポロ5号に流用された[2]。アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月に発射されたアポロ7号で、1号の予備搭乗員であった飛行士たちによって達成された。
飛行士水中脱出訓練に参加する乗員たち。1966年6月
地位飛行士 地位飛行士 ※全員、アポロ9号の搭乗員として飛行 地位飛行士 ※全員、アポロ7号の搭乗員として飛行 AS-204はサターンIB型ロケットで地球周回軌道に打上げられ、アポロ司令船および機械船の初の有人試験飛行となるはずであった。ノースアメリカン社が製造した司令・機械船CSM-012は、月面への着陸方法で月周回ランデブー方式が採用される前に設計された、いわゆる「ブロック1」と呼ばれる初期型バージョンであるため、月着陸船とのドッキングに必要とされる装置は搭載していなかった。ブロック1の2号機は、1966年の終わりに製造がキャンセルされた。またこの後のアポロ計画のすべてで飛行したブロック2と呼ばれるバージョンは、この事故を教訓としてあらゆる点で改良が加えられた。AS-204は、地上の追跡装置や制御施設、またアポロ-サターンの発射機構など、ロケットの発射作業を試験するためのものであり、宇宙船が順調に機能すれば2週間以内で終わるものとされていた[3]。 1966年3月21日、NASAは最初の有人飛行の搭乗員にグリソム、ホワイト、チャフィーを指名したことを発表した。また1号のバックアップ要員にはジェームズ・マクディヴィット、デヴィッド・スコット、ラッセル・シュウェイカートが、ブロック1の2号機の搭乗員にはウォルター・シラー、ドン・アイスル、ウォルター・カニンガムが任命された。 当時NASAはこの飛行で、同年11月に発射される予定の、ジェミニ計画最後の飛行であるジェミニ12号とのランデブーおよびドッキングができないかと検討していた[4]。だが5月には、アポロ宇宙船の基本設計がいまだ実際に飛行できるレベルにまでに到達せず、またジェミニとの互換性を組み入れるための十分な時間が確保できなくなったため、この企画は実現性がなくなり[5]、最終的に1966年末の発射の予定が1967年2月21日にまでずれ込んだことにより、計画倒れのものとなった[6]。グリソムはもしこの決定がなされなかったら、滞在可能日数ぎりぎりの14日間まで軌道上にとどまる覚悟をしていた。司令船のシミュレーターで訓練するチャフィー、ホワイト、グリソム。1967年1月19日。 1966年8月4日に発行された新聞の記事では、この飛行はすでに「アポロ1号」と呼ばれていた[7]。また8月26日にケネディ宇宙センターに到着したCM-012の梱包には、ノースアメリカン社によって「APOLLO ONE」のラベルが貼られていた。 1966年10月、NASAは1号に小型のテレビカメラを搭載し、司令船から生中継の映像を送ることを発表した。このカメラは、管制センターが飛行中の船内の計器板を監視するためのものでもあった[8]。船内カメラは、この後のすべてのアポロ計画の有人飛行で使用された。 AS-204の後には、1967年の8月と晩秋に2度の飛行が行われる予定だった。このうち2回目の有人飛行に予定されていたのは、サターンIBにブロック2の司令・機械船(AS-205)を搭載して発射するもので、無人のサターンIBで発射された月着陸船(AS-208)とのランデブーとドッキングを地球周回低軌道で行うものであった。1966年12月、ブロック1の2号機は不必要であるとしてキャンセルされたため、シラー、アイスル、カニンガムの3飛行士はアポロ1号の予備搭乗員に再配置された。マクディヴィット、スコット、シュウェイカートの3名はブロック2司令・機械船および月着陸船の飛行計画の主搭乗員に昇格し、AS-204の事故が発生した後は司令船CM-101号機でトレーニングを開始した。3度目の有人飛行では、フランク・ボーマン、マイケル・コリンズ、ウィリアム・アンダースの3飛行士を搭乗させ、司令船・機械船・月着陸船のすべてのアポロ宇宙船をサターンV型ロケットで地球周回楕円軌道に打ちあげることが予定されていた(AS-503)。 1966年6月、グリソムらは「アポロ1号」の名を冠した計画の徽章をデザインする許可を得た。徽章の中心には、発射地点のフロリダを含むアメリカ南東部を背景にして飛行する司令船と機械船が描かれている。また遠くには月が見えていて、計画の最終的な目標を象徴している。絵を取り囲む金縁の中には計画名と飛行士名が記され、さらにその周囲は星条旗をあしらった縁で囲まれている。徽章は飛行士たち自身がデザインし、ノース・アメリカンの社員アレン・スティーブンスが作成した[9][10]。 アポロ司令・機械船は、それ以前に設計されたどの宇宙船よりも大きく、またはるかに複雑なものであった。1963年10月、ジョセフ・シー(Joseph F. Shea)がアポロ宇宙船計画室室長に任命された。同室は司令・機械船と月着陸船双方の設計および製造を担当する。1966年8月28日に司令・機械船CM-012がケネディ宇宙センターに搬送されてきたとき、そこには予定されていた技術的な変更のうち113箇所が手つかずのままであることがわかり、さらに搬送された後にも623箇所の変更が加えられた[11]。グリソムは、本物の宇宙船の変更についていくことができないシミュレーション担当の技術者たちの無能さにフラストレーションを感じていたため、自宅の庭になっているレモン[12]をとってきて[13]、それをシミュレーターの上からぶら下げたことがあった[14]。 宇宙船が搬送されてくる1週間前の1966年8月19日、シー自身も参加して宇宙船に関する検討会が開かれたが、その中で飛行士たちは、道具を船内のいろいろな場所に留めておくのに便利なようにと技術者たちが取りつけた、ナイロンやベルクロなどのような大量の可燃性の物質に関する懸念を表した。
船長ガス・グリソム(Gus Grissom)
副操縦士エドワード・ホワイト(Edward Higgins White)
飛行士ロジャー・チャフィー(Roger B. Chaffee)
予備搭乗員
1966年4月?12月
船長ジェームズ・マクディビット(James McDivitt)
副操縦士デイヴィッド・スコット(David Scott)
飛行士ラッセル・シュウェイカート(Rusty Schweickart)
1966年12月?1967年1月
船長ウォルター・シラー(Wally Schirra)
副操縦士ドン・エイゼル(Donn F. Eisele)
飛行士ウォルター・カニンガム(Walter Cunningham)
計画の背景ケネディ宇宙センターに到着した、アポロ1号に搭載される司令船CM-012。1966年8月26日
計画の徽章
諸問題飛行士たちのアポロ宇宙船の火災その他の問題に対する懸念を表すため、アポロ宇宙船計画室(ASPO)のジョセフ・シー局長に送られた写真。1966年8月19日。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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