アポマトックス方面作戦
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アポマトックス方面作戦
Appomattox Campaign
南北戦争

両軍の指揮官、グラント(左)とリー

1865年3月29日 - 1865年4月9日
場所バージニア州
結果北軍の勝利

衝突した勢力
北軍南軍
指揮官
ユリシーズ・グラントロバート・E・リー
被害者数
-











アポマトックス方面作戦



ルイス農園

ホワイトオーク道路

ディンウィディ・コートハウス

ファイブフォークス

第三次ピーターズバーグ

サザランド駅(英語版)

ナモザイン教会

アメリア・スプリングス

ライス駅(英語版)

セイラーズクリーク

ハイブリッジ

カンバーランド教会

アポマトックス駅

アポマトックス・コートハウス

アポマトックス方面作戦(アポマトックスほうめんさくせん、英:Appomattox Campaign)は、南北戦争1865年3月と4月に、バージニア州で行われた一連の戦闘である。南軍将軍ロバート・E・リー北バージニア軍が降伏し、南北戦争を実質的に終わらせることになった。
背景

ユリシーズ・グラント中将指揮下の北軍は1864年6月以来、バージニア州ピーターズバーグ市周辺でリー軍を包囲していた。両軍はその冬を念入りに構築したおよそ35マイル (56 km)にもなる塹壕で過ごしたが、これは後の第一次世界大戦での前例となった。冬の間、グラントは西方に少しずつ動き、南軍はそれに合わせて戦線を延ばしていたが、その厚みが無くなり、防御線の1マイル当たり約1,000名 (625 人/km)の兵士しか配せなかった。リーは自軍がいつまでも包囲に耐えていくことができないと理解し、春が来て雨が少なくなり、地方道路が再び通れるようになる頃にその窮状から脱出する道を探した。

アポマトックス方面作戦の前の1865年3月25日に、リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦の最終戦闘であるステッドマン砦の戦いが不成功に終わった。この包囲を破ろうという南軍の試みは大きな損失を生んだ。リーは、グラントが間もなく南軍に唯一残っている供給線、サウスサイド鉄道に向けて動くであろうことを理解した。これを抑えられれば南軍の運命を決してしまう可能性があった。

リーはこの頃に全南軍の指揮官になった(南軍における彼の名声にも拘らず、ほぼ3年間北バージニア軍のみの指揮官だった)。リーの作戦はピーターズバーグを包囲する北軍から逃れ出て、南西方向に撤退し、リンチバーグで飢えた兵士を養い、さらに南へ向かうことだった。そこでノースカロライナ州にいるジョセフ・ジョンストンの軍隊と北バージニア軍が合流できれば、ジョンストン軍を追撃しているウィリアム・シャーマン少将の北軍を打ち破り、続いて全軍でグラント軍を叩くために戻る可能性が生まれるはずだった。この脱出行のために自軍を右翼側に動かした。

一方グラント軍には、1864年のバレー方面作戦から戻ったフィリップ・シェリダン少将の部隊が追加されていた。エドワード・オード少将のジェームズ軍もピーターズバーグの戦線に到着し、このことでガバヌーア・ウォーレン少将とアンドリュー・A・ハンフリーズ少将の軍団をリー軍に対する攻撃行動に出す余裕ができた。
戦闘ファイブフォークスの戦い前後のピーターズバーグでの動きグラント軍のピーターズバーグに対する攻撃とリー軍の撤退開始

アポマトックス方面作戦では次の戦闘が行われた。
北軍の攻勢
ルイス農園の戦い(1865年3月29日)詳細は「ルイス農園の戦い」を参照

シェリダンの騎兵隊とウォーレンの第5軍団が、リー軍の右翼を包み込むことを期待して、ディンウィッディー・コートハウスのさらに南西に動くことで北軍の攻勢を開始した。
ホワイトオーク道路の戦い(3月31日)詳細は「ホワイトオーク道路の戦い」を参照

リーは自軍の右翼に回りこむ北軍の動きに合わせて自軍を動かした。ウォーレンがホワイトオーク道路沿いの南軍塹壕に攻撃を掛けたが、ブッシュロッド・ジョンソン少将部隊の反撃で一時的に撃退された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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