アベナキ族
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アベナキ族
総人口
12,000
居住地域
(メイン州ニューハンプシャー州バーモント州
(ニューブランズウィック州ケベック州)
言語
英語フランス語、アベナキ語
宗教
カトリック、アベナキ族の神話を元にした宗教
関連する民族
アルゴンキン族

アベナキ族(Abenaki, Abnaki, Abinaki, Alnobak等)は、アメリカ合衆国ではネイティブアメリカン、カナダではファースト・ネーションに数えられる、北アメリカ大陸における先住民族のうちの1部族である。アルゴンキン語族の中の東アルゴンキン語族(英語版)に分類される言語の1つである、アベナキ語(英語版)を話す部族としても知られている。アベナキ族はカナダではケベック州沿海州、アメリカ合衆国ではニューイングランド地方で暮らしている。この地域は東アルゴンキン語族では「夜明けの地」を意味するWabanahkikと呼ばれている。アベナキ族はワバナキ連邦を構成する5部族の1員である。

アベナキ族は言語的、地理的にグループ分けされており、歴史的には中心となるべき強い権限というものは存在しなかった。いくつものバンドや部族に分かれており、文化的な特性を共有していた[1]
部族名の由来

アベナキ(Abenaki)、語中音消失が起こった形のアブナキ(Abnaki)は、それぞれアベナキ語で「夜明けの地の人々」を意味するWabanakiまたはWobanakiakに由来する[2]。この2つの言葉はしばしば混同される。

Wobanakiakは、woban(「夜明け」または「東」)とaki「土地」[3]を組み合わせた言葉に由来する。この地域の土着の呼び名は、ニューイングランドやカナダの沿海州(the Maritimes)に対応している。周辺地域でアルゴンキン語族(西アベナキ語、東アベナキ語、マリシート=パサマクォディ語、ミクマク語)を話す部族でも、この呼び名が時々用いられた[2]

アベナキ族は自分自身を「真の人間(Real People)」を意味するAlnobak、または「男たち」を意味するAlnanbalと呼ぶ[1]
言語

アベナキ語はペノブスコット語と密接に関係している。パサマクォディ、マリシート、ミクマクや、その他東部アルゴンキン諸語とも言語的な相似がみられる。アベナキ語は話し言葉としては絶滅の危機に瀕している。部族の人々はアベナキ語を復活させるために、オダナクの保留地やニューハンプシャー州、バーモント州、ニューヨーク州などで尽力している。
支族

アベナキ族は民俗学的には西アベナキ族と東アベナキ族の2つに分けられる。アベナキ族の主な支族は以下の通り。



西アベナキ族

コチェコ族

ナシャウェイ(ナシュア)族

オシピー族

ピスカタクア族

ペナクック族

ソコキ族

ウィニペソーキー族



東アベナキ族

アンドロスコギン族

ケネベク族

マリシート族

オダナク族

オシピー族

ペノブスコット族

パサマクォディ族

ウォーリナク族




西アベナキ族の分布

東アベナキ族の分布

故郷樺皮で作られたアベナキ族のウィグワム

Ndakinna(私たちの土地)と呼ばれるアベナキ族の故郷は、ニューイングランド地方北部からケベック州南部、沿海州南部にかけて広がっていた。東アベナキの人口はニューブランズウィック州メイン州ニューハンプシャー州ホワイト山地に集中していた。西アベナキはバーモント州ニューハンプシャー州マサチューセッツ州コネチカット川沿いの谷で暮らした[4]。ミシコイ族はシャンプレーン湖の東岸沿いに、ペナクック族はニューハンプシャー州南部のメリマック川の谷で暮らしていた。

ニューイングランドにヨーロッパからの移民がやって来たこと、また多くの戦いが起こったことにより、アベナキ族はケベックへの後退を強いられた。1676年から1680年まではシルリー(現在はケベックシティーの一部)で暮らしていた。その後約20年間はショーディエール川の滝付近の土手で暮らし、さらに18世紀初頭にはオダナクやウォーリナクに移った。当時のアベナキ族は、狩猟、漁労、わな猟、ベリー類の採集、またトウモロコシ、マメ、カボチャ、ジャガイモ、タバコ等の栽培による自給自足経済であった。そのほか、ベリーを収穫するためのかごを作ったり、樹液を煮詰めてメープルシロップを作った。かご作りは伝統工芸として現在も続けられている。

イギリス対フランスの戦争が起こると、アベナキ族はイギリスの移民に自分たちの土地(ダキナ)を追い出された経緯から、フランス側についた。この時代において、マリシート族のNescambuitまたはAssacumbuitという人物が140人以上の敵を倒し、ナイトの称号を受け取ったという逸話がある。全てのアベナキ族がフランス側について戦ったわけではなく、故郷にとどまった者も多くいた。アベナキ族の貢献は広く報道されることはなかった。

カナダでは2つの集落が築かれた。1つはサン・フランソワ・デュ・ラックで、現在はアベナキ語で「帰郷」という意味のオダナクと呼ばれている。もう1つはセントローレンス川南岸のベカンクールで、現在はウォーリナクと呼ばれている。これら2つのアベナキ族の保留地は成長と発展を続けてきた。約400人のアベナキ族が、合計7平方キロメートルに満たない2つの保留地で暮らしている。

バーモント州、ニューハンプシャー州には約3,200人のアベナキ族が、主にシャンプレーン湖の周辺地域で暮らしている。保留地にいない残りのアベナキ族は、カナダからアメリカに跨る様々な都市や町で暮らしている。カナダではオンタリオ州、ケベック州、ニューブランズウィック州、アメリカではニューイングランド地方北部に多い[1]
歴史アベナキ族の男女(18世紀)

歴史家のダイアナ・ミュアーは、イロコイ連邦と接触する前のアベナキ諸族は帝国主義、拡張主義的な文化であり、「三姉妹」と呼ばれるトウモロコシ、豆、カボチャの農耕によって多くの人口を支えることができたと論じている。彼らは主に周辺のアルゴンキン諸族と戦ってきた。ミュアーは考古学的な記録を用い、イロコイ連邦のアルゴンキンの土地への侵入は、アルゴンキン諸族が農耕を導入していたことにより頓挫したと論じている。つまり、イロコイ連邦に征服される脅威から守るために十分な戦士を抱え、それを支えられる多くの人口があったということである。

1614年、トーマス・ハントが24人の若いアベナキ族をイギリスに連れて行った[5]。ヨーロッパ人により北アメリカの植民地化が進められている中で、アベナキ族の領域はイギリス帝国がマサチューセッツに設けた新たな植民地と、フランス領のケベックとの間にあった。いずれも土地の境界に関して同意していなかったため、両国間で争いが絶えなかった。アベナキ族は伝統的にフランスと同盟を結んでいた。

イギリスの攻撃や新たな伝染病の流行により全滅の危機に瀕したアベナキ族は、1669年頃にケベックへの移住を開始した。ヌーベルフランスの知事は彼らに2つの土地を貸し下げた。1つは現在オダナク・インディアン保留地として知られているサンフランソワ川に面した場所で、もう1つは現在ウォーリナク・インディアン保留地と呼ばれているベカンクール付近の場所であった。
インディアン戦争

ワンパノアグ族のメタコメット酋長がニューイングランドのイギリス人入植者と戦った、1675年のフィリップ王戦争で、アベナキ族はワンパノアグ族の味方をした。アベナキ族はメイン州で3年間戦いを続けた。アベナキ族は白人入植者に村や家屋を襲撃され、後退していった。1678年に平和条約が締結され戦争が終結したが、多くの人々が殺され、生き残った者もバミューダ諸島に奴隷として売り飛ばされた[6]

1702年から始まったアン女王戦争では、フランスと同盟して戦った。メイン州ウェルズからカスコ(ポートランド)にかけて、数々の小さな村が襲撃され、10年以上の間に約300人が殺害された。戦争が終結すると、襲撃も収まった。捕虜の中にはモホーク族やアベナキ族に引き取られる者もいた。年配の捕虜は身代金を求められることがふつうだった[6]

ラル神父戦争(1722 - 25年)では、セバスチャン・ラル神父に促され、アメリカ人入植者の侵入を止めるために戦いが起こった。


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