アヘン
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ケシの果実(いわゆるケシ坊主)に傷をつけて、アルカロイド樹脂を採取する

アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたもので、麻薬の一種である。
概要

ケシの実から採取されるアルカロイドオピエートと呼ばれ、そこから合成されるものがオピオイドである[1]麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートオピオイドを指す[1]

ケシから採取されたアルカロイドや、そこから合成される化合物は、鎮痛、陶酔といった作用があり、また高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす[1]。このようなアルカロイドや、合成化合物には、モルヒネヘロインコデインオキシコドンを含む。

アヘンの名の由来は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: a pian アーピエン)を音読みしたものである。代の中国江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。

ケシの実の汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。しかし同時に習慣性や、濫用による健康被害など、麻薬としての特性があり、アヘン戦争を引き起こすなど、重大な害悪も引き起こした。

現在では、1912年ハーグ阿片条約、これを引き継ぐ1961年麻薬に関する単一条約において国際統制下にある。日本でもあへん法によって規制されている。
性質

アヘンを収穫する伝統的な方法としては「ヘラ掻き」がある。ケシの開花後、10 - 20日経って花弁の落ちた未熟果(いわゆるケシ坊主)の表皮に、のうち浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌する。これを夕方掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になる。こうして集められたのが生アヘンで、約10%ほどのモルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含む。

ヘラ掻きによるアヘンの採取は人手や手間がかなりかかる。そのわりに得られる量はごく僅か(1kgのアヘンを得るのに、ケシの実が約2000本も必要)である。貧しい農民が栽培に従事するアフガニスタンなど非合法栽培地域では現在も行われているが、合法的栽培においては、現在は有機溶媒で茎も含む全体を処理して化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が主流である。

作ったアヘンは産地で薬研で粉末にし、ブリキ缶に入れ、製品として出荷する。精製しなくても薬効があるために、極めて古くからそのまま吸引されてきた。しかし生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るため、そのままでの麻薬としての商品価値はかなり低い。価値を高めるにはさらに煮出して乾燥させるなど精製し、及び化学的に加工して、モルヒネやヘロインに加工する必要がある。精製すると量がアヘンのときの 20 - 25% までに減る。
産地

以前[いつ?]は、東南アジアタイラオスミャンマーに跨る「黄金の三角地帯」で多く生産されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯でのケシ栽培は大きく減少した。2009年の国連薬物犯罪事務所の報告[2]によれば、アヘンの94%はアフガニスタンで生産されている。2010年にはケシの病害により生産量が減少、アヘンの農場出荷額が$64/kg から$169/kgへと高騰した[3]

2011年10月、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外務大臣は、「アフガニスタンのアヘン畑を一掃することにアメリカが消極的であることに驚きを禁じえない」と述べ、アフガニスタンでのアメリカのアヘン問題への態度を批判した[4]
アヘン史阿片を吸う中国人禁止令により、焼却される喫煙具

アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中央アルプスにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。メトロポリタン美術館にある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館はザクロと解説しているもののケシの未熟果の束を運んでいる。

紀元前300年頃のギリシャ哲学者であるテオプラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。ギリシャ神話では、アヘンの発見者は女神デメテルとされている。ローマ帝国ネロ帝時代の医師ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものである。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。

5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘がある。

11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。

大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。

清国では、上海など都市の河沿い地域に使用者が多く、当初は運搬船の停泊船内や宿場などで煙草に混ぜて吸入されていた。19世紀、このアヘンの蔓延に危機感をつのらせた清国がイギリス商人のアヘンを焼却(中国語版)したことが、イギリスと清国の間で、アヘン戦争(1840年-)の引き金となった。しかし、この紛争後もアヘン流入量が縮小されず、市中では次第に半固形の阿片膏を煙管(キセル)に入れて吸入するようになっていた。この携行しやすい阿片膏によって、より清国内の広域へアヘンが浸透、アヘン窟も伝播した。20世紀初頭の清末には、清国の上流層にもアヘンが一部流れていたとされており、清滅亡後の1930年代においても、煙管など吸引用品の取扱店や「大煙」と看板を掲げた煙館など、アヘン関係の店が各地でみられた。

ヨーロッパにおいては、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴い19世紀には反アヘン運動が高まった。また、アメリカカナダへの中国人労働者の流入ともに、特にサンフランシスコをはじめとする地域でアヘン窟がみられるようになり、1875年に至り反ドラッグ法制定など対策が行われた。

20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年にはハーグ阿片条約が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に国際連盟が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の麻薬製造制限条約においてアヘン貿易は完全に禁止された。国際連合に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の麻薬に関する単一条約においてもアヘンは統制されている。
日本におけるアヘン史
江戸時代まで

文献に見える古い記録では、梶原性全(かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって室町時代には、南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある[5]


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