アヘン戦争
イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵
時1840年6月28日 - 1842年8月29日
場所清(現在の中華人民共和国)沿岸地域
結果 イギリスの勝利。南京条約締結。
衝突した勢力
イギリス帝国 清
指揮官
ヴィクトリア(女王)
メルバーン子爵(首相)
パーマストン子爵(外相)
チャールズ・エリオット(外交官)
ジョージ・エリオット
19,000人[1]
イギリス陸軍5000人
インド陸軍(英語版)7000人
王立海軍7069人
200,000人
被害者数
69人戦死[1]
451人負傷[1]18,000人から20,000人死傷[1]
アヘン戦争(アヘンせんそう、中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり[2]、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。
なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。 もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)[3]。 一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた[4]。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった[4]。 このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった[5]。 イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となり、収入の20%が阿片になった。広東貿易の枠外での阿片貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなる。[6][7] イギリス東インド会社の対中国貿易特許は1834年に失効し、独占体制は終了して、これまで同社の下請等の形で貿易活動を行っていた個人貿易商に委ねられることとなった[8][9]。これに伴い、同年、イギリス政府は、東インド会社の管貨人委員会に代わって現地で自国商人の指導・監督を行う貿易監督官を派遣することとした[10][9]。初代監督官にはウィリアム・ジョン・ネイピア
戦争に至った経緯
アヘン貿易「三角貿易#イギリス、インド、清国の三角貿易」も参照
当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったため[13]、イギリスの大幅な輸入超過[14]であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、治安が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた[15]。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転[16]、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。
清のアヘン取締.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}道光帝(左)と林則徐(右)。