アブ・サイード・チョードリー
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第41代国際連合人権委員会委員長
前任者Pieter Kooijmans
アブ・サイード・チョードリー(Abu Sayeed Chowdhury、ベンガル語: ??? ???? ??????、1921年1月31日 ? 1987年8月2日)は、バングラデシュの法律家、大統領[3]。また、国際連合人権委員会委員長、ダッカ大学副学長、外務大臣、バングラデシュにとって初代となるイギリス駐在の高等弁務官(イギリス連邦加盟国間で特命全権大使の代わりに交換する外交使節長)なども歴任した[4]。
生い立ちと教育(英語版)のナグバリ (Nagbari) で、ザミーンダール(ザミーンダーリー制度のもとで徴税請負人でもあった封建地主)の家に生まれた[4]。父アブドゥル・ハミード・チョードリー (Abdul Hamid Chowdhury) は、ザミーンダールであり、後には東パキスタン州議会(英語版)の議長も務めた人物であった。父チョードリーは、イギリス領インド帝国から「カーン・バハドゥール(英語版)」の称号を与えられていたが、後には、イギリスの残虐行為や帝国に反対する運動に加わる中で、この称号を捨てた。
チョードリーは、1940年にカルカッタのプレジデンシー・カレッジ(英語版)を卒業した。1942年には、カルカッタ大学から修士号と法律学位を取得し、第二次世界大戦後にはロンドンで法曹資格を得た[4]。 チョードリーは、1947年にカルカッタ高等裁判所
経歴
1969年、チョードリーはダッカ大学の副学長に任命された[4]。1971年、ジュネーブに滞在していた彼は、パキスタン軍による東パキスタンにおけるジェノサイド行為に抗議して、この職を辞した[3]。ジュネーブからイギリスに赴いた彼は、バングラデシュ暫定政府(英語版)の特使となった。1971年4月24日には、亡命ベンガル人たちによって、暫定政府傘下の組織「在英バングラデシュ人民共和国評議会 (The Council for the People's Republic of Bangladesh in UK) がイギリスのコヴェントリーで結成され、評議会の運営委員会5人が選出された。チョードリーは、1971年8月1日から1972年1月8日まで、ロンドン駐在のバングラデシュ人民共和国高等弁務官 (High Commissioner for the People's Republic of Bangladesh, London) となった[5]。 解放後、チョードリーはダッカに戻り、1972年1月12日にバングラデシュの大統領に選出された。1973年4月10日[4]、再び大統領に選ばれたが、大統領職は同年12月に辞職し、外交特使となった。1975年4月8日、シェイク・ムジブル・ラフマン大統領の下の内閣に港湾担当大臣として入閣した。ラフマンが暗殺された後、8月にはカンデカル・モシュタク・アハメド 1978年、チョードリーは国際連合の差別防止・少数者保護のための小委員会 (the United Nations Sub-committee on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities) の委員の一人に選ばれた[4]。1985年には、国際連合人権委員会の委員長に選出された[3]。ヴィシュヴァ・バラティ大学
バングラデシュ大統領
国際連合
チョードリーは、1987年8月2日に、ロンドンで心臓発作のため死去し、生まれ故郷の村であるタンガイル地区のナグバリに埋葬された[6]。享年66。
著書
Probashe Muktijuddher Dinguli
Manobadhikar
Human Rights in the Twentieth Century
Muslim Family Law in the English Courts[7]