アブハズ人
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アブハズ人
(А?суаа)
トルコに移住したアブハズ人(1864年)
(およそ20万人から60万人)
居住地域
 トルコ3万9千人?50万人[1][2][3][4]
 アブハジア94,606人[5]
 ジョージア(アブハジアを除く)3,527人[6]
 ロシア11,366人[7]
 シリア5,000人[4]
 ドイツ5,000人[4]
 ウクライナ1,458人[8]
言語
アブハズ語トルコ語ロシア語グルジア語
宗教
東方正教会イスラム教スンナ派
関連する民族
アバザ人アディゲ人ウビフ人

アブハズ人(またはアブハジア人、英語:Abkhazs、Abkhazians)は、主として南コーカサスアブハジア地方に住む民族。アプスア人(アブハズ語:А?суаа、Apswaa)と自称する[9]

19世紀後半、ロシア帝国カフカーズ戦争によって北カフカースを併合すると、ロシアの植民地的支配を嫌った多くのアブハズ人がオスマン帝国に移住し[# 1]、現在でも数万?数十万人のアブハズ人がトルコに住んでいる。また、旧ソビエト連邦国家、特にロシアウクライナカザフスタンなどにも多くのアブハズ人が住む[11]
出自

アブハズ語北西コーカサス語族に属し、東スラヴ語のひとつであるロシア語とはもちろん、コーカサス諸語の中でカルトヴェリ語族に属するグルジア語とも異なる言語である。この地域に住むいくつかの部族に言及した古典史料はあるものの、部族のはっきりとした出自や所在地については意見が分かれている。アブハジアの研究者や一部外国の研究者は、ギリシャ・ローマ時代の歴史家アッリアノスや博物学者大プリニウスの著作で言及されるアバスグ人(abasgoi、アバスゴイ人とも)やアプスィル人(apsilai)がアブハズ人(自称ではアプスア人)の祖先ではないかと考えているが、一方ではこれらアパスグ人やアプスィル人はジョージアの多数民族であるカルトヴェリ人(狭義の「グルジア人」)やその支族の祖先とする説もあり[12]、この歴史認識の違いは領土の帰属認識の違いとも相まって1989年のアブハジア紛争など今日の民族紛争の原因となっている[13]

10世紀後半までの間に、より人口規模の小さい、様々な民族的サブグループが現代アブハズ人へと収れんされていった。その内いくつかのグループは、19世紀後半、ロシア帝国が北カフカースを征服したときに故郷を失い、ムハージルとなってオスマン帝国へ移住することを余儀なくされた。
歴史1922年当時のアブハジアと周辺諸国の地図

780年代にアンチャバヅェ王朝がアブハジア王国(en:Kingdom of Abkhazia)を建国し、東ローマ帝国の支配から自由になると、アブハジアはグルジア文化圏の一部となり、当時のアブハジアの貴族、聖職者や教育を受けた人々は、文化と教養のある言葉としてグルジア語を使用した。その後20世紀初頭ロシア語がその地位にとってかわるまで、グルジア語は多くのアブハズ人にとっての第二言語であった。11世紀初めから15世紀にかけて、アブハジアはグルジア王国の一部であり、その後独立してアブハジア公国となるも結局オスマン帝国に占領された。

1810年代から1860年代にかけてのロシア帝国のアブハジア征服は、多数のイスラム教徒アブハズ人をオスマン帝国へ追いやることとなり、またアブハジアのロシア化政策を強力に推し進める端緒ともなった。結果として、移住・離散したアブハズ人の数は、アブハジアに住むアブハズ人の数の倍とみられている。離散民の大多数はトルコに移住し、その数は現在10万から50万人に上る。また、少数がシリア(5,000人)とヨルダンに住んでいる。なお近年離散民は西側諸国、主にドイツオランダスイスベルギーフランスイギリスオーストリアそしてアメリカ合衆国(主にニュージャージー州)へも移住している[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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