アブドーラ・小林
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「ブッチャー小林」の愛称があるテレビスタッフの「小林豊 (実業家)」とは別人です。

アブドーラ・小林
Abdullah Kobayashi

プロフィール
リングネームアブドーラ・小林
アブドーラ小林
スタン小林
アブドーラ・ジュニア小林
ミスター歩誤助
源之助"GK"小林
小林 源之助
小林 洋輔
本名小林 洋輔
ニックネーム信州信濃の流血マシーン
ブラッド・レインメーカー
アブ小プロ
THE鉄人
怪人
身長174cm
体重165kg
誕生日 (1976-07-22) 1976年7月22日(47歳)
出身地長野県千曲市
所属大日本プロレス
トレーナーアブドーラ・ザ・ブッチャー[1]
ケンドー・ナガサキ[1]
ミスター・ポーゴ[1]
デビュー1995年5月29日
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アブドーラ・小林(アブドーラ・こばやし、本名:小林 洋輔(こばやし ようすけ)、1976年7月22日 - )は、日本男性プロレスラー長野県千曲市出身。血液型A型。大日本プロレス所属。愛嬌あるキャラクターとして君臨している。プロレスでの師匠はアブドーラ・ザ・ブッチャーでリングネームもその師匠の名前から取っており師匠譲りのファイトを展開している。自称「信州信濃の流血マシーン」、「ブラッド・レインメーカー」。以前は自ら起業したレスラーズ運輸という運送会社の代表を務める(廃業)傍ら、「スーパー銭湯おふろの国」での催しとしてマグロ・鮭・タコ・真鯛・ロブスターなどとも戦ってきた。「小林軍団」の軍団長を務める。

なお以前は「アブドーラ・小林」と「アブドーラ小林」の2種類の表記が混在していたが、2019年現在は、団体公式HP・本人SNSなどにおいては「アブドーラ・小林」で統一されている。
経歴

大日本プロレスの草創期メンバーの一人。

1995年5月29日、大日本プロレス浜松市体育館大会における対谷口裕一戦でデビュー。

2004年まではBJW認定デスマッチヘビー級王座に一歩届かなかったものの、2005年は関本大介とのコンビ、「マッスル&ファットです」を結成し、これが観客に大ウケ。パワー溢れるプレーを持ち前に、伊東竜二佐々木貴組、「045邪猿気違's」こと葛西純"黒天使"沼澤邪鬼と抗争を繰り広げていた。

2005年10月14日、後楽園ホールで「045邪猿気違's」と空位になっていたBJW認定タッグ王座を争い、「蛍光灯250本デスマッチ」で激突。試合途中からはズボンを脱ぎ捨ててふんどし姿で奮闘し、見事必殺のダイビング・バカチンガーエルボーwith蛍光灯で葛西を沈め、タッグ王者に輝いた。

さらに12月21日横浜文化体育館大会で伊東のBJW認定デスマッチヘビー級王座奪取をかけて「蛍光灯&建築現場デスマッチ」で激突し、打ち負かしてタイトルを奪取した。

しかし、その後の試合は2006年3月現在全て全敗、しかも全てタッグ戦でほとんどパートナーがやられてばかりで、挙げ句の果てには、伊東や佐々木貴に「ベルトの価値を落とした」とボロクソに罵られる始末。これが発端となり、2006年3月31日、佐々木貴との防衛戦として、「蛍光灯&剣山デスマッチ」を行ったが敗戦。ベルトを失った。

2007年9月24日後楽園大会「デスマッチ・ロイヤルランブル」で優勝し、デスマッチヘビー級次期挑戦権を獲得し、第21代王者・"黒天使"沼澤邪鬼と、10月14日後楽園大会で、長嶋茂雄の通算本塁打数にちなんだという「蛍光灯444本デスマッチ」で対戦したが、あえなく敗戦。再度のベルト奪取はならなかった。それ以降も度々、440本オーバーの蛍光灯を用いての蛍光灯デスマッチで宮本裕向(2009年9月30日・高岡テクノドーム・445本)・伊東(2010年12月19日・横浜文体・450本)に挑戦しているが、全て敗退している。

2008年8月に地元・長野を活動拠点とする信州プロレスに初参戦[2]。以後、何度か参戦している。リングネームは「矢島聡」を名乗ったこともある[3][4][5][6][7]。また、2011年には「RE:2011 グレート☆無茶の大冒険 第2弾」にも参戦し、長州力初代タイガーマスク藤波辰爾ら、大物レスラーとの対戦も経験した[8]

2010年には渡米したうえでコンバット・ゾーン・レスリングトーナメント・オブ・デスに参戦。ニック・ゲージとの第一回戦を制したのち、JCベイリーとの第二回戦で敗れ去った。[9]

2011年12月18日横浜文化体育館大会「クライマックス・ゲーム・オブ・デス」で伊東を破り2度目のBJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得。2012年はプロレス大賞MVP獲得を目指して防衛回数を重ねることを公言し、その通り12月9日の横浜文化体育館大会で伊東と7度目の防衛をかけた「セブン・カラーズ・デスマッチ」に勝利するまで年間での防衛を果たし、防衛回数記録更新が評価されプロレス大賞の敢闘賞と日本インディー大賞のMVPを手にする。しかし2013年1月2日の後楽園大会で石川修司に敗れ8度目の防衛に失敗し王座から転落したため、直後の7日に行われたプロレス大賞の表彰式はタイトルなしで参加した。

2013年5月5日に受けた血液検査でC型肝炎ウイルス感染の疑いが発覚した。直後の再検査では検出が抗体のみで抗原は検出されず、団体内外の参戦選手も再検査の結果に異常がなかったため早期に復帰できると思われたものの、さらに念のためとして受診した精密検査で小林の体内にウイルスの残留が確認されたため、発症はしなかったが治療を行うことになり、完治まで他選手への感染防止のため選手活動停止を命ぜられる。その後治療中から2014年7月の最終検査まで半年以上ウイルスが発見されない状態が続いたことから、26日の後楽園大会で復帰を発表。8月10日の「長野・佐久創造館大会」で[10]、1年3か月ぶりに復帰戦(対征矢学河上隆一戦、パートナーは大鷲透)を行ない、同月15日には「伊東竜二デビュー15周年記念大会?ビックサマー・デスマッチドラゴン・フェスティバル?」デスマッチ復帰戦(蛍光灯300本デスマッチ、対伊東戦)を行う。なお、これらの試合には敗れている。

復帰後、小林の欠場時に宮本が使用していた「愛してますチョップ」を宮本が継続して使用したことから因縁が生まれ、2014年12月21日に行われたBJW認定デスマッチヘビー級王座戦は「愛してます・コントラ・愛してます」として行われ、負けた小林が愛してますチョップを封印させられてしまう。さらに2015年の一騎当千での予選中、木高イサミと「バカチンガーエルボードロップ・コントラ・勇脚」ルールで行った試合に敗れてしまい、一騎当千でのバカチンガーエルボードロップまで封印されてしまうが、小林はイサミと共に決勝へ進出し再対決を征して初優勝しエルボーの封印を解く。さらにこの優勝で宮本と再戦する権利を得たことから、5月5日に「愛してますチョップ完全決着戦」として王座戦のリマッチをおこない、これに勝利して3回目の王座獲得のうえ「愛してますチョップ」の封印も自力で解いた。

これで7月20日の両国国技館大会で伊東竜二と防衛戦を行うことを決定させたが、6月にC型肝炎ウイルスの抗体が再び発見されたことが判明し以前の罹患によるものか見極めるため一旦欠場することになり、精密検査の結果ウイルスは発見されなかったことから6月29日に復帰し両国大会には間に合ったが、「20周年記念20アイテムデスマッチ」として行われた試合では伊東に敗れベルトを失った。

その後2016年12月に横浜文体で行われたデスマッチヘビー級王座戦で星野勘九郎を破り4度目の王座を獲得している。

2019年3月17日の後楽園大会では伊東竜二と対戦し、師匠のブッチャーから受け継いだフォーク攻撃を披露。最後はコーナーからダイビングバカチンガーエルボードロップを2連発し、勝利をおさめた。同じ小林軍団の鈴木秀樹からは「アブドーラ・ブッチャー(のフォーク)はすごいけど、アブドーラ・小林のはしょっぱい」と駄目出しを食らった[11]

2020年、全日本プロレス世界最強タッグ決定リーグ戦に関本との「マッスル&ファットです。」で初エントリー。一時単独首位に立つも優勝は逃したが、開幕戦でこの年の優勝チームである宮原健斗青柳優馬組(NEXTREAM)から勝利を上げた[12]


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