アブドーラ・ザ・ブッチャー
[Wikipedia|▼Menu]

アブドーラ・ザ・ブッチャー
2011年4月
プロフィール
リングネームアブドーラ・ザ・ブッチャー
プッシーキャット・パイキンス
ゼーラス・アマーラ
本名ローレンス・ロバート・シュリーヴ(ラリー・シュリーヴ)[1]
ニックネーム黒い呪術師
The Madman from the Sudan[2]
身長186cm[3]
体重150kg(全盛時)[3][4]
誕生日 (1941-01-11) 1941年1月11日(82歳)[5]
出身地 カナダ
オンタリオ州ウィンザー[5]
スポーツ歴柔道
空手
トレーナージノ・ブリット[6]
ザ・シーク
デビュー1961年
引退2019年2月19日
テンプレートを表示

アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーヴ(Larry Shreve、本名:Lawrence Robert Shreve[5]1941年1月11日[7] - )は、カナダの元プロレスラー。オンタリオ州ウィンザ?出身。

生年は1936年ともされる[3]ギミック上の出身地はアフリカスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」、入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。

プロレス界を代表する悪役レスラーの一人で、2011年にはWWE殿堂入りしている。来日回数は140を超えており、これは歴代外国人レスラーとしては最多である。また親日家であり、現夫人は韓国人日本人のハーフでもある[8][9]。 
来歴[ソースを編集]

ネイティブ・アメリカンの父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれる。出生時は4ポンド(約1800グラム)にも満たない小さな新生児だった。両親と男女8人の兄弟姉妹に囲まれ、幼少期は貧しいながらも幸せな家庭で育った。ほどなくして家計を助けるため廃品リサイクル、新聞売り、靴磨き等の小遣い稼ぎを経ながら、独自のビジネス感覚を身に付けていく。

中学生になった頃、近くの警察署で開催されていた柔道空手のスクールに通い始める。それまで未経験だった格闘技を学ぼうと思った動機は「無料だったから」である。成長期に本格的にスポーツに取り組んだことと肉体労働とが幸いし、青年期には180cm90kgの体格を有するにまで成長する。ある日たまたまプロレス興行を見に行き、「自分もプロレスで稼げるのではないか」と考えるようになった。

1961年モントリオール地区のプロモーターだったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス(Pussycat Pikens)」「ゼーラス・アマーラ(Zelis Amara)」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。

1960年代カナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年10月2日にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を奪取[10]、同月から11月にかけてはジン・キニスキーNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した[11]。モントリオールでは1969年7月14日、イワン・コロフを破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[12]1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリースタンピード・レスリングビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った[13]1971年8月30日には古巣のモントリオールにて、ミスター・Xを下してインターナショナル・ヘビー級王座に返り咲いている[12]

1970年代前半はアメリカ五大湖地区を拠点に活動。1972年6月24日にはオハイオ州アクロンにて、アーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得[14]。同地区ではラッドやジョニー・パワーズらと抗争を繰り広げた。ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した[1]

南半球にも遠征しており、1973年11月にはオーストラリアにてNWA世界ヘビー級王座に挑戦[15]。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった[6]ニュージーランドでは、1974年3月12日にジョン・ダ・シルバを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している[16]

1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部ジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975年2月21日にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を[17]1977年2月11日にはトニー・アトラスから同TV王座を[18]それぞれ奪取した。

1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデスワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した[19]。ミッドアトランティックでは1983年11月24日の『スターケード』、1985年7月6日の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している[1]

また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。なお、ブロディのラストマッチにおける対戦相手はブッチャーだった(1988年7月15日、ブロディ&コロンVSブッチャー&ダニー・スパイビー[20]

1991年にはWCWに登場し、同年10月27日の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティングリック・スタイナースコット・スタイナーエル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャックダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された[21]

以降はセミリタイア状態となるも、日本やプエルトリコを中心に北米各地のインディー団体にも単発参戦。1994年にはニュージャージー州アトランティックシティのWWAに出場し、ジェリー・ローラーリック・マーテルと対戦した[22]。プエルトリコでは1996年2月10日、メイブルを破りWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得[23]。同王座は2004年1月3日にもカーリー・コロンから奪取しており[23]、これが最後のタイトル戴冠となっている[1]

2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った。それぞれ地域限定での引退であり、この時点では「日本では生涯現役」と語っていた。 WWE殿堂セレモニーにて(2011年4月)

2011年3月、プロレス界における功績をたたえハードコア・レスリングのレジェンドとしてWWE殿堂に迎えられた[2]。インダクター(プレゼンター)は、流血の大抗争を展開した因縁のライバル、テリー・ファンクが務めた[24]

2012年1月2日、日本でも現役引退を表明[25]2019年2月19日、日本にて現役引退セレモニーが行われた(下述)。
日本での活躍[ソースを編集]
日本プロレス参戦期(1970年 - 1972年)[ソースを編集]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:153 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef