アブドゥルマリク
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ウマイヤ朝第5代カリフ
アミール・アル=ムウミニーン
ハリーファト・アッラーフ[注 1]
アブドゥルマリクの肖像と考えられているヒジュラ暦75年(西暦694/5年)に鋳造されたディナール金貨[注 2][8]
在位685年4月 - 705年10月9日
全名アブー・アル=ワリード・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン・ブン・アル=ハカム・ブン・アブー・アル=アース・ブン・ウマイヤ
出生644年7月/8月または647年6月/7月
マディーナ
死去705年10月9日
ダマスクス
埋葬バーブ・アル=ジャービーヤ
アブドゥルマリク(アブドゥルマリク・ブン・マルワーン・ブン・アル=ハカム, アラビア語: ??? ????? ?? ????? ?? ?????, ラテン文字転写: ?Abd al-Malik b. Marw?n b. al-?akam, 644年7月/8月または647年6月/7月 - 705年10月9日)は、第5代のウマイヤ朝のカリフである(在位:685年4月 - 705年10月9日)。
アブドゥルマリクはイスラーム教徒として生まれ育った世代としては最初の世代に属し、マディーナでの幼少期には敬虔な生活を送った。その後、ウマイヤ朝の創始者であるムアーウィヤ1世や父親のマルワーン1世の下で軍事や行政の経験を積み、父親の死後に当初予定されていた後継者であるヤズィード1世の息子のハーリド(英語版)を差し置いてカリフに即位した。即位当時のイスラーム国家は第二次内乱として知られる混乱期にあり、ウマイヤ朝の支配地はシリアとエジプトに限定されていた。
686年にイラクの支配権の奪回に失敗したアブドゥルマリクはシリアの支配権を固めることに注力し、ウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを称していた最大の敵対者であるアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの打倒を目指した。しかし、689年には攻勢に出ていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)と不利な条件で講和条約の締結を余儀なくされ、その翌年には遠征中に親族のアル=アシュダク(英語版)がダマスクスで反乱を起こした。アブドゥルマリクは反乱を鎮圧すると691年にジャズィーラ(メソポタミア北部)でウマイヤ朝の支配に抵抗していたカイス族(英語版)を帰順させ、自軍へ組み入れることに成功した。そして同年にイラクを統治していたアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)を破ってイラクの支配権を回復すると、将軍のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)をメッカへ派遣して692年末にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを殺害し、イスラーム国家をウマイヤ朝の下で再統一した。
イスラーム国家の再統一後にビザンツ帝国との戦争が再開され、ウマイヤ朝はアナトリアとアルメニアへ進出するとともに698年には北アフリカのカルタゴを破壊し、後に北アフリカ西部とイベリア半島を征服するための拠点となるカイラワーンの支配を手にした。東方ではイラクの総督となったアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフがイブン・アル=アシュアス(英語版)の反乱を鎮圧してホラーサーンを含む東方地域におけるウマイヤ朝の支配を確固なものとし、ハワーリジュ派の反乱も698年までに封じ込めることに成功した。晩年には最後の課題となっていた後継者問題で息子のアル=ワリード(ワリード1世)の継承を確保し、705年にダマスクスで死去した。
アブドゥルマリクは先任者たちの下での分権的な統治体制を改め、権力の中央集権化を推し進めた。軍事体制は現地の部族の有力者に依存した体制から中央のシリア軍を各地へ派遣する体制に変わり、地方の軍事力への依存度を低下させた。地方の税収の余剰分はダマスクスへ送られるようになり、初期のイスラーム教徒による征服活動に従事した兵士とその子孫が受給していた伝統的な俸給は廃止され、兵士の俸給の受給対象は現役の者に限られるようになった。また、アブドゥルマリクの改革の中で最も重要な政策となったのは、従来のビザンツ帝国とサーサーン朝の通貨に代わって単一のイスラーム通貨を導入し、シリアとイラクにおける官僚機構の公用語をギリシア語とペルシア語からアラビア語へ切り替えたことである。アブドゥルマリクはイスラーム教徒として育ったことやキリスト教勢力との対立、そしてイスラームの宗教者層による批判の影響から国家体制のイスラーム化を推進した。