アフリカ史
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アフリカ大陸

本項ではアフリカ史(アフリカし)、すなわちアフリカ大陸歴史について解説する。
前提1812年のアフリカ大陸

アフリカ人類が誕生した地である。つまり、実は、人類の歴史が一番長い大陸である。

また(その北の端では)人類の四大文明とされる古代エジプト文明を生んだ地でもあり、エジプトに関してはヒエログリフで、数千年におよぶ歴史がかなり詳細に碑文・壁画などに書き残されていて、王家の谷など王族の墓やピラミッド内部などに、状態の良い遺物が多数残されていたのが発見されており、(エジプトに限定すれば)文字、遺跡、墓、遺物、ミイラなど多数の残されており、世界から研究者も集まっており、カイロ大学などに考古学の研究センターが置かれ現地の考古学者もおり相当の予算も割かれ、研究がかなり進んでいる地でもある。またエチオピアは、旧約聖書にも登場する地である。

ところが、古代エジプト文明以外の(ここ数百年の、アフリカ中部や南部に関する)文字で確認できる歴史の研究となると、状況が一変してしまう。ヒエログリフ以外の文字で書かれた歴史を俯瞰できるよう「通史」として並べた場合は、アフリカの外から描写した記述ばかりで、しかも虫食いのような不完全な歴史となってしまう。これはアフリカ史に関する研究対象や蓄積された史料が、地理的にも時代的にも極めて偏っているためである[注釈 1]

そうなってしまう事情はいくつかある。「アフリカの(エジプト以外の)大部分の社会では文字が用いられておらず、文字記録に頼った歴史の研究が行われにくいこと」がある。また、「その厳しい環境や政治的、経済的な理由から考古学的な調査が遅れており、樹木や草などの植物を材料に建てられた建物が集まった集落や都市などが多く、それもさかんに移転が行われるなどの事情があって遺構や遺物が残りにくく、たとえ文字記録があっても検証ができない場合が多い[1]」などとも語られた。さらに、民族の移動が激しく、口頭伝承によって伝えられる土地も不明になりがちで、(エジプト以外では)遺物の散逸も著しく、口頭伝承を裏打ちする史料も存在しないため、過去の記録が正確に伝えられてきておらず、歴史をさかのぼることを困難にさせている。だがもうひとつの理由は、ヨーロッパ系の研究者は(お粗末なことに)アラビア語を読めず、アラビア語を学習しようともせず、文献を読めないままにあてずっぽうな推測をしている、という事情もある。グレート・ジンバブエ遺跡が発見された際も、「フェニキア人によるもの」としたり、レイモンド・ダートにみられるようにアフリカ人蔑視の発想が「アフリカは暗黒大陸」というイメージを作り出していたにすぎない[注釈 2]

こうした状況下でアフリカ全体の歴史を語る書籍は数が限られており、研究者によって歴史の時代区分からして大きな差異が生まれており、一見すると統一性がない状態に置かれている[注釈 3][2]

しかし、これらの見解はすでに古くなりつつある。これらの見解は、アラビア語文献を読む能力すら持たない者が、考古学的調査を全く行なわないままに、「安楽椅子の人類学」的発想で、ただ単にアフリカの表面的な事情のみで判断したヨーロッパ人たちの主観的な見方に過ぎず、実際には、アフリカは、イスラーム商人によるサハラ交易とインド洋交易で繁栄をきわめていた黒人王国や商業都市が存在していた。マリ王マンサ・ムーサーのメッカ巡礼の際の逸話もその一端を語るものである。(古代エジプト以外の)アフリカの歴史の研究をするなら、まずアラビア語で書かれた史料をすらすらと読めるくらいのアラビア語読解力を身につけておかないと、その入口にすら立っていない。その事実を踏まえたうえで、どの研究者の言説ならば史料に裏打ちされた記述をしており、どの研究者の言説は、史料も読めず、ただ「イメージ」や偏見を語っているにすぎない、と判別、より分けをしなければならない。[3]

やがて、ケニアの歴史家オゴトが「自分自身の手で歴史が書き上げられて初めて政治的独立がなされる」と指摘している通り、アフリカ各国の独立・国の建設という事業を進めるにあたり、国家として「歴史」が必要になってきた。これに伴い1960年代以降、西欧の決め付けによる「歴史無き大陸」のイメージを払拭するため、アフリカの歴史家たちによって黒人奴隷社会以前の歴史研究が積極的に行われるようになっている[注釈 4]

アフリカ考古学とアフリカ史の研究は、ランダル・マッキーヴァーやG.ケイトン・トンプソンのような真摯な学究的態度を継承しつつ、ケニアの歴史家オゴトが「自分自身の手で歴史が書き上げられて初めて政治的独立がなされる」と指摘している通り、アフリカ各国の独立・国の建設という事業を進めるにあたり、国家として「歴史」が必要になってきた事情によって、1960年代以降、西欧の決め付けによる「歴史無き大陸」のイメージを払拭する為、アフリカの歴史家たちによって黒人奴隷社会以前の歴史研究が積極的に行われるようになってきた。しかし、アフリカの歴史家自身もヨーロッパの一般的な進歩史観に基づいていたため、中央集権化が進んでいた国家の歴史については詳細な調査が進んでいたが、非中央集権的な社会、固定した権力者を輩出しなかった社会は遅れた事例としておざなりになる傾向を払拭しきれていない面もある。
先史時代ルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)

1992年12月アメリカ日本エチオピアの合同チームがエチオピアのアラミス地帯においてそれまで最古の猿人として知られていたルーシーアウストラロピテクス・アファレンシス)よりも明らかに原始的な約440万年前の猿人化石を発見した。現地の言葉で「ルーツ」を意味するラミダス猿人と命名されたこの猿人は人類の祖先として最古級のものと位置付けられ、研究・調査が進められている[4]。さらに2000年10月にはミレニアム・アンセスターと命名された約600万年前のものとされる猿人の化石がケニアのバリンゴで発見されており、「最古の猿人」は研究・調査が進み、時代を経るごとに遡っている現状がある[5]
人類の誕生数多くの化石が発掘されるケニア・トゥルカナ湖

約400万年前から100万年前にかけて、人類は急速な進化を遂げ、東アフリカおよび南アフリカサバンナ生態系においていくつかの種類のアウストラロピテクスの化石が発見されている。1995年にケニアのトゥルカナ湖で発見されたアウストラロピテクス・アナメンシスは約420万年前から390万年前に生息していたとされ、ラミダス猿人とアウストラロピテクス・アファレンシスの中間点とされている。最近まで最古の猿人とされていたアウストラロピテクス・アファレンシスは約370万年前から300万年前の地層でエチオピア、ケニア、タンザニアなど各地から出土されており、この種あるいは類似した種が広く分布していた事が見て取れる[6]

その後、約300万年前には地球の寒冷化が急速に進行し、その影響でアフリカ大陸が乾燥地帯へと変貌していった。この影響で猿人の分化が発生し、咀嚼(そしゃく)力がより強化されたロブスト型猿人[7]と呼ばれる種と、我々人類の直接の祖先となるホモ属[注釈 5]と呼ばれる種が誕生した。世界最古の石器がエチオピアで出土したのもこの時代である。ホモ属が使用したとされるオルドワン型の石器は動物の骨を砕いたり、切断したりといった用途に使われ、動物資源の入手に大きな威力を発揮した。初期の石器

約150万年前になるとホモ属はさらに進化を遂げ、原人[注釈 6]と呼ばれるようになる。1984年に原人の全身骨格がケニアで出土したのを期にこの時期の人類史の研究が大きく前進した。体格や身長、男女差などはこの時代の原人と我々現代人に大きな差異はないとされている。


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