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ドイツ 独立国
アフリカ分割(アフリカぶんかつ)とは、1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のことである。
1912年にイタリアがリビアを獲得したことによって、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された[1]。
なお、リベリアはアメリカ合衆国の保護国であったため、事実上アメリカ合衆国の植民地であった。また、エチオピアもアフリカ分割後の1936年にイタリア領東アフリカとして実質的な植民地となった。
背景1880年から1913年の植民地分割図
ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀のポルトガル・スペインの進出以来、ムスリム(イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれもアフリカ大陸の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった[2]。支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは奴隷や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである[2]。
しかし19世紀に入ると産業革命が進み、それに伴って奴隷貿易が禁止された[3]。この結果、アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する[4]。
当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていた。しかし一方で、アフリカの人々は自分達より人種的・文明的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた[2]。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(altruism)とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。 18世紀の末頃から、ヨーロッパはアフリカの内陸部に対する興味を深め、探検隊を派遣してこれまで「暗黒大陸」と呼ばれてきたアフリカの実像を明らかにしようとするようになった[4]。19世紀半ばにはデイヴィッド・リヴィングストン、ヘンリー・スタンリーら偉大な探検家が現われ、内陸部の探検を進める[4]。これらの探検隊は、宗教的、あるいは政治的な目的を帯びており、探検の目的は奥地へのキリスト教の布教や、奥地の首長との政治関係樹立を行っていった[5]。 また、奴隷貿易の対象ではなく宗教上のライバルであった北アフリカのイスラム諸国は、19世紀には宗主国オスマン帝国の影響力が衰え、また自立した群小政権もヨーロッパ勢力の経済的・軍事的な発展に対してほとんど為す術がないほど弱体化していた。ここに入り込もうとしたのが当時の植民地大国であるイギリスとフランスであり、両国はナポレオン戦争時代からエジプトの支配権を巡って対立関係にあった。1869年、フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成させたが、この建設はエジプト財政に対する過大な負担に跳ね返り、1875年になってスエズ運河会社の株を購入したイギリスがかわってエジプトの支配権を手に入れた。1882年、イギリスはついにエジプトを保護国化し、さらに南のスーダンへと侵攻する。 イギリスは、エジプトとは別に、1815年のウィーン議定書でオランダから手に入れたアフリカ南端のケープ植民地領を拡大し、南アフリカの内陸部に植民地を広げつつあった。イギリスはエジプトと南アフリカの南北ふたつの拠点から大陸を南北に貫くよう植民地の拡大に向かっていったので、これをアフリカ縦断政策という。 一方、フランスはモロッコを影響下におくとともに、1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とした。フランスは北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を西は大西洋から東は紅海、インド洋にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指すアフリカ横断政策を推進した。1881年には東アフリカのアフリカの角西部にジブチ植民地を建設して大陸横断の東の終点とする。 この2政策が交錯したため、1898年に現スーダンのファショダでファショダ事件が勃発した。この事件においてフランスがイギリスに譲歩したため、大きな軋轢は生まれなかった。 19世紀後半に入ると、ヨーロッパの新興工業国であるイタリア、ドイツ、ベルギーなどがアフリカへの進出を試み始め、イギリス・フランスや古くからの進出国であるポルトガル・スペインなど、列強の間で植民地の境界を巡る衝突と対立が起こった。特に、ベルギーの国王レオポルド2世が王家の私的な領地としてアフリカに植民地を持つことを目指し、探検家スタンリーを中部アフリカに派遣してコンゴ川流域の領有化をはかると、ベルギーの国内外を巻き込んだ大きな問題となった。また、西アフリカの大河川ニジェール川流域には北のサハラ側からフランス、南の大西洋側からイギリスの勢力がのび、対立が明らかとなる。
沿革
初期の進出
新興国の進出と植民地化に対する抵抗