『アフリカの女』(アフリカのおんな、仏: L’Africaine)は、ジャコモ・マイアベーアによる5幕2場のグランド・オペラで、初演はパリ・オペラ座(サル・ペルティエ)で1865年4月28日に行われた。ウジェーヌ・スクリーブによるフランス語のリブレットに基づいている。このマイアベーアの最後のグランド・オペラは当初、ポルトガルの航海士ヴァスコ・ダ・ガマをモデルにした『ヴァスコ・ダ・ガマ』として作曲されたが、作曲家が初演を迎えることなく他界してしまった。このため、リハーサルの監督を務めたベルギーの音楽学者フランソワ=ジョゼフ・フェティスによってカットが施され、リブレットも改変され、タイトルも『アフリカの女』に変更された。近年では原点に回帰し『ヴァスコ・ダ・ガマ』として上演されることもあるが、『アフリカの女』が一般化していることから、そのまま『アフリカの女』のタイトルが使われる。 マイアベーアは19世紀中盤においてグランド・オペラを確立し、『悪魔のロベール』(Robert le Diable, 1831年)、グランド・オペラのプロトタイプとなった『ユグノー教徒』(Les Huguenots, 1836年)[1]、『預言者』(Le prophete, 1849年)、またジャック・アレヴィの『ユダヤの女』などグランド・オペラのヒット作が生まれていた。 作曲の経緯は、マイアベーアのオペラの中ではとりわけ複雑と言える。最初に台本作家のスクリーブとマイアベーアが契約を交わしたのが1837年5月で、1865年4月の初演まで28年の長い歳月が経過し、その間スクリーブが1861年2月20日に、マイアベーアも1864年5月2日に死去してしまったのである。カミーユ・デュ・ロークル
作曲の経緯
楽曲セリカを演じるサス
『アフリカの女』はパリ・オペラ座向けのグランド・オペラなので、(1)5幕(または4幕)仕立て、(2)劇的な題材、(3)歴史的な興味を惹きつけ、(4)大合唱やバレエなどの多彩なスペクタクル要素、(5)異国情緒などを備えていることが基本条件となっている。さらに、豪華な演出ができることも重要である。合唱は随所で活躍を見せるが、特に第1幕後半の長大な議会の大合唱が見所のひとつとされている。また、第4幕における戴冠式も注目に価する。管弦楽によるスペクタクルでは特に、第3幕の船上の場面での嵐の描写はマイアベーアの面目躍如たる大スペクタクルと言える。異国情緒はそれまでのマイアベーアのグランド・オペラと比べれば若干控え目な表現にとどまっている。具体的には第2幕のセリカの子守歌や第4幕におけるインド風の行進曲などである。アリアや重唱は数多くあり、最も有名なものは第4幕のヴァスコのアリア「素晴らしい国 おおパラダイス」 (Pays merveilleux! O paradis) であるが、第1幕のイネスのアリア「さようなら美しい海岸」、第2幕ラストの七重唱、第2幕ヴァスコとセリカの二重唱などもある。こういった歌唱の場面ではベル・カントの世界への懐古趣味的な側面も窺える。なお、第5幕でのネルスコとセリカの二重唱に関しては、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」のイメージを参考にしたと言われる[2]。 19世紀には広範な成功を収めたが、20世紀は他のマイアベーアの作品と同様の経緯を辿らざるを得なかった。1865年7月22日にはロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場にて英国初演が、同年12月1日にはニューヨークで米国初演が、同じくイタリア初演が同年にボローニャで行われた。初演後の11年間で227回の再演を重ねた[3]。 オペラ研究家の岸純信は『アフリカの女』の独創性と後世の影響について次のように述べている。「序曲冒頭に流れるホルンの続くフルートの柔らかな響きはチャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』(1879年)の苺摘みの合唱の序奏と呼応。同じ序曲の締めくくりには、サン=サーンスの『サムソンとデリラ』(1877年)の第2幕で流れる半音階進行と同じ音型が蠢く。また、第1幕でカトリックの僧侶が歌う込み入ったフレーズはヴェルディの『ドン・カルロス』の火刑の場に直結。マイアベーアは最後の最後まで、多くの作曲家にアイデアの種を与え続けていた[2]。
初演後
音楽的影響