アフマド・シャフィーク
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アフマド・シャフィーク
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エジプト・アラブ共和国首相
任期
2011年1月29日 ? 2011年3月3日
大統領ホスニー・ムバーラク
ムハンマド・フセイン・タンターウィー (元首代行)
前任者アフマド・ナズィーフ
後任者イサーム・シャラフ
エジプト民間航空大臣
任期
2002年9月18日 ? 2011年1月31日
首相アーティフ・オベイド(英語版)
アフマド・ナズィーフ
前任者アフマド・アブドッラフマーン・ナーセル(英語版)
後任者イブラーヒーム・マンナーウ
エジプト空軍司令官
任期
1996年4月7日 ? 2002年3月1日
大統領ホスニー・ムバーラク
前任者アフマド・アブドッラフマーン・ナーセル(英語版)
後任者マグディー・ガラール・シャアラーウィ(英語版)

個人情報
生誕Ahmed Mohamed Shafik
(1941-11-25) 1941年11月25日(82歳)
エジプトカイロ
政党国民民主党
無所属
宗教イスラム教
兵役経験
所属国 エジプト
所属組織 エジプト空軍
軍歴1961-2002
最終階級空軍中将[要検証ノート]
戦闘北イエメン内戦
第三次中東戦争
第四次中東戦争

アフマド・ムハンマド・シャフィーク・ザキー(アラビア語: ???? ???? ???? ???, ラテン文字転写: Ahmed Mohamed Shafik Zaki, [?a?mad ma??ammad ?a?fi??]、1941年11月25日[1][2] - )は、エジプト・アラブ共和国軍人政治家。いわゆる世俗派[3]
概要

エジプト空軍司令官(cf.エジプト軍)を務め、2011年1月29日から同年3月3日までの33日間、同国首相を務めた。その間2回の内閣改造を行った。2012年エジプト大統領選挙の有力候補であったが、決選投票で敗れた。

戦闘機パイロットにはじまり飛行中隊(スコードロン)司令官、ウィングコマンダー、基地司令官とキャリアを重ねていき、1996年から2002年までエジプト空軍司令官を務め、階級は空軍中将[要検証ノート]。その後2002年から2011年までは民間航空大臣(英語版)を務めた。

2011年1月29日、エジプト革命における民衆の要求に応える形で、ホスニー・ムバーラクより首相に指名された。これによりシャフィークは末期のムバーラク政権の一端を支えた最後の首相となった[4]。首相を務めたのは約1ヶ月間のみであった。3月2日に出演した討論番組において、エジプトの著名な小説家よりムバーラク体制の遺物であると責めたてられ、翌日の3月3日に首相職を辞した[5]
生い立ち

1941年11月、エジプト王国カイロにて生誕。1961年空軍士官学校(en:Egyptian Air Academy)を卒業後、20歳で空軍(en:Egyptian Air Force) (EAF) に入隊する。その後、軍事学修士を得たほか、ナーセル軍事大学院(英語版)で高等戦争カレッジ(HWC)、国防カレッジ(NDC)、およびパリ高等戦争学校で連合部隊の 給費生。ナーセル軍事大学院で上級司令官コースを修了。また「宇宙における国家戦略」で博士号を取得している。空軍中将として数々のメダル勲章を獲得した[6]
軍人として

若き将校の時代は戦闘機のパイロットを務め、のちに飛行隊の指揮官となった。1967年から1970年にかけて発生した第三次中東戦争の消耗戦争 (War of Attrition) においては、複数の航空隊の指揮官を同時に経験する。その後、空軍基地司令官のポストを得た[6]

1973年第四次中東戦争においては当時空軍司令官兼国防次官であったホスニー・ムバーラクの指揮のもと、上級の戦闘機パイロットとして戦った。この戦争ではイスラエルの航空機を2機撃墜したとされている[7]

1984年にはローマの在イタリア大使館武官に任命され、1986年までその任に就いた。1988年から1991年にかけていくつかの上級司令官を経験し、その後に空爆作戦局の司令官に任命された[6]。1991年に空軍参謀長に任命され、1996年4月には空軍司令官に昇進した。

2002年に兵役を退き、民間航空大臣に任命された。空軍司令官のポストは参謀長マグディー・ガラール・シャアラーウィ(英語版)空軍中将が引き継いだ。
政治家として
首相指名と辞任

2011年1月25日に革命運動が勃発し、1月28日には反体制派デモ隊24人が死亡。ムバーラクはアフマド・ナズィーフ首相を含む全閣僚を更迭し[8]、29日、野党を含めたエリート層から尊敬を集めるとされるシャフィークを新しい首相に指名した[9]。シャフィークは、首相就任当初、概ね容認された。彼に敬意を持っていたのは、エジプトのエリート層のみならず、(当時の)反体制派も含まれたと、仏語紙では報じられた。民間航空大臣として、エジプト航空を立て直した、清廉な政治家との評価もあった[10][11][12]。内相を更迭し、財界、なかでも、ムバーラクの次男ガマール・ムバーラクの側近は入閣しなかった[13]

しかし組閣にあたっては閣僚を数名入れ替えただけにとどまったため、不満の声があがった[14]1月31日、僅か組閣の2日後、1回目の内閣改造をした。

2011年2月11日にムバーラク政権は倒れ、SCAF エジプト軍最高評議会がエジプトの統治を暫定的に引き継いだが、シャフィークはSCAFの一員でもあった[15]

2月22日、2回目の内閣改造を余儀なくされ、ムバーラク政権に協力した守旧派の一人と見做され、首相として表舞台に残ることに反発を受けた[16]

2011年3月2日、エジプトの衛星ネットワークONTV(英語版)にて放送されているリーム・マーギド(英語版)のトーク番組バラドナー・ベル・マスリ(英語版)において、ヤコービアン・ビルディング(英語版)の著者であるアラー・アル=アスワーニー(英語版)に喧嘩腰のインタビューをされた翌日の3月3日に首相を辞した。


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