アフマディーヤ、アフマディー教団、アハマディア(Ahmadiyya、ウルドゥー語: ?????? アラビア語: ????????)は、インド・パンジャーブ州出身のミルザ・グラーム・アハマド(1835年 - 1908年)が起こしたイスラーム改革派。異端と見なされ、迫害を受けることが多い。カーディヤーン(インド)のホワイト・ミナレットとアハマディア旗 ミルザ・グラーム・アハマドは41歳の時に神に啓示を受けたといい、1889年に自らをメシアでありマフディーであると主張した。これはムハンマドが最後の預言者であるというイスラームの全体の教え、またムハンマド・ムンタザルがマフディーであるとするシーア派・十二イマーム派の教義に反するが、バーブ教やバハイ教とは異なり、アハマディアの信者は、アハマディアとイスラームとは別個の宗教ではないと考えており、自分らをスンナ派の分派としている[1]。パキスタンがインドから分離したのち信者は1947年に集団移住したが、教義の違いからパキスタン国内で迫害を受けて1974年の憲法改正で非イスラームとされ、1984年にズィヤーウル・ハック政権下でムスリムとしての権利を剥奪・非合法化されたため、同年にイギリスに本部を移した[1](→アフマディーヤ信者に対する迫害)。開祖の没後はカリフ制を取り[1]、2017年現在は第5代カリフのミルザ・マスルール・アハマド
概要
イスラーム教はムハンマドに啓示された人類に対する最終的な戒めであり、アハマディアは何世紀にも渡って失われた真の本質と元の形に復帰させる必要性を強調している[2]。アハマディア支持者は、宗教的な戦争を終わらせ、流血を非難し、道徳、正義、平和を再建するために神がアフマドを送り込んだと信じており、イエスの再臨にたとえている。彼らは神の指導の下に、ムハンマドと初期イスラーム共同体が行ったような真実かつ本質的な教えを擁護することによって、狂信的で革新的な信仰と実践を放棄すると信じている[3]。従って、アハマディアはイスラームの復興と平和的伝播を導くものと自負している[4]。ミルザ・グラーム・アハマド
ミルザ・グラーム・アハマドは1889年3月23日にこの運動を始め、死後、数多くのカリフによって率いられ、2016年には南アジア、西アフリカ、東アフリカ、インドネシアに集中し、世界の209か国と領域に拡大した。アフマディーヤは強力な宣教伝統を持ち、イギリスやほかの西洋諸国に及んだ最初期のイスラーム・コミュニティの一つであった[2]。信者数は世界に1000万から2000万の間だと推定されている[5]。
なお、1914年に、アハマドの位置づけを巡り、カーディヤーン派とラホール派(英語版)に分裂した[6]。前者はアフマドを預言者とみなしているのに対し、後者は改革者として位置づけている。パキスタン国内に限ったデータだが、ラホール派の信者数は、カーディヤーン派に比べてはるかに少なく、5000-1万人と推定されている。[7] アハマディア運動は1889年に設立されたが、アハマディアという名称は約十年後に採択された。1900年11月4日のマニフェストで、ミルザ・グラーム・アハマドは、この名称は自分の名前に因むものではなく、預言者ムハンマドの別名のアハマドによると説明した。 彼によれば「称賛」を意味するアラビア語"?amd"から派生した「称賛されるもの」を意味するムハンマドとは、預言者の栄光の運命、威厳と権力を指し、ヒジュラの時代からその名を採用した。しかし、「きわめて称賛される」「慰めるもの」を意味するアラビア語の派生形である「アハマド」はムハンマドの説教の美しさ、やさしさ、謙虚さ、愛と慈悲、平和のためによる。アハマドによれば、これらの名前はイスラーム教の二つの局面を指し、後には後者がより大きな注意を払われることになった[8][9]。 アハマディアの信仰は、イスラームの五つの柱、六つ信仰項目などシーア派に比べてスンナ派により似ている。同様にアハマディアはクルアーンを聖典として受け入れ、礼拝にはカーバに向かい、スンナ(ムハンマドの慣習)を守り、スンナ派のハディースの権威を受け入れている[10]。
語源
教義の大要