アフガニスタン紛争_(1989年-2001年)
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アフガニスタンの地図

アフガニスタン紛争(1989年 - 2001年)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、1989年ソビエト連邦軍の撤退から、2001年アメリカ合衆国有志連合諸国によるターリバーン政府への攻撃が発生するまでの期間を扱う。
背景詳細は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」を参照

アフガニスタンは1978年のアフガニスタン人民民主党政府の成立以来、各地でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力の蜂起が発生し、1979年12月からソビエト連邦による軍事介入を受けた。その後の戦闘を経て、1985年に成立したソ連のゴルバチョフ政権による外交政策の転換の中で、ソ連軍は徐々に撤退を開始。1988年4月の・ソ・アフガン・パキスタン四国和平協定によって和平が成立し、1989年2月までには全てのソ連軍が撤退した。

しかし、ムハンマド・ナジーブッラー大統領が率いる人民民主党政府も健在であった。ソ連軍は撤退したものの、人民民主党政府への援助は行い続けた。
アフガニスタン内戦(1989-1992)詳細は「アフガニスタン内戦 (1989年-1992年)(英語版)」を参照

アフガニスタン内戦 (1989-1992)
アフガニスタン紛争

ソ連撤退後の1989年時点でのアフガニスタン勢力図

時1989年2月15日? 1992年4月27日
場所アフガニスタン
結果

ムジャーヒディーンの勝利

共産主義政権の崩壊

ムジャーヒディーンの各派閥による内戦


衝突した勢力

アフガニスタン民主共和国
支援:
ソビエト連邦 ( 1991年まで)
インド ムジャーヒディーン
支援:
パキスタン
アメリカ
サウジアラビア
中華人民共和国
イラン
指揮官
ムハンマド・ナジーブッラー (捕虜)
ラシッド・ドスタム (-1992)
シャフナワーズ・タナイ (-1990)
モハマッド・アスラム・ワタンジャル
グラム・ファルク・ヤクビ
ファズルリハク・ハレキヤル

ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
アフマド・シャー・マスード
ムラー・ナキーブ
イスマーイール・ハーン
ムハンマド・ユーヌス・ハーリス
アブドル・ハク
ハジ・アブドゥル・カディール
ジャラルッディン・ハッカニ
ネク・ムハンマド・ワジル
ムハンマド・オマル
アブドゥル・ラスル・サイヤフ
ムハンマド・ナビ
シブガトゥッラー・ムジャッディディー
サイード・アフマド・ギラニ
アブドゥッラヒム・ワルダク
ムハンマド・アジフ・モシニ
アブドゥッラー・アッザーム 
ウサーマ・ビン・ラーディン
アイマン・ザワーヒリー
アブドゥルアリー・マザーリー
Sayyid Ali Beheshti  ラシッド・ドスタム (1992-)
戦力

アフガニスタン軍:

55,000 (1989)

大統領警備隊:

10,000 (1989)

人民民主党政府の管理下にある部隊:

約 160,000 (1991)、準軍事組織及びKHAD含む

民兵:最大 170,000 (1991)不明

1989年

2月、ムジャーヒディーン各派はペシャーワルシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名し、人民民主党政府の後継政府作りに取りかかった。暫定政府は人民民主党の支配するジャラーラーバードを首都とし、首相にアブドゥル・ラスル・サイヤフ、外相としてグルブッディーン・ヘクマティヤールを据えた。この政府にはパキスタンの支持があった。

この当時の主要なムジャーヒディーン各派には以下のようなものがある。

ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが率い、軍事司令官アフマド・シャー・マスードイスマーイール・ハーンが所属するタジク人主体の「イスラム協会(英語版)」

ヘクマティヤール率いるパシュトゥーン人主体の「イスラム党ヘクマティヤール派」

ハザーラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」

彼らは反政府では一致していたが、決して一枚岩の団結を持っていたわけではなかった。また、ヘクマティヤール派は他の武装勢力に対して攻撃を仕掛けることもあった。1976年のマスード逮捕にもヘクマティヤールは関わったとされる[1]。しかし、ヘクマティヤール派はパキスタン軍統合情報局( en:Inter-Services Intelligence、略称ISI)から優先的に資金供与されており[2]、サウジアラビアからも資金援助を得ていた[3]
ジャラーラーバードの戦い

ソ連軍の撤退後の1989年3月?7月、ムジャーヒディーン各派は人民民主党政府の拠点ジャラーラーバードに総攻撃を行った。作戦を後押ししたのはパキスタン首相ベーナズィール・ブットーと、アメリカの駐パキスタン大使ロバート・オークリー(en:Robert B. Oakley)であった。

連日の猛攻にもかかわらずムジャーヒディーン側は敗北し1万人が戦死したといわれる。敗因はムジャーヒディーン各派の間で意思の疎通がとれておらず、統一した指揮系統ができていなかったことがあげられる。これに対しソ連流の訓練を受けた政府軍は善戦しムジャーヒディーン側を敗退させた。またソ連も空輸により政府軍を支援した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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