アフォンソ5世_(ポルトガル王)
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アフォンソ5世
Afonso V
ポルトガル国王

在位1438年9月13日 - 1481年8月28日

出生1432年1月15日
ポルトガル王国
シントラ宮殿
死去1481年8月28日
ポルトガル王国
リスボン
埋葬 ポルトガル王国
バターリャ修道院
配偶者イザベル・デ・コインブラ
 フアナ・ラ・ベルトラネーハ
子女ジョアン
ジョアナ
ジョアン2世
家名アヴィス家
王朝アヴィス朝
父親ドゥアルテ1世
母親レオノール・デ・アラゴン
サイン
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アフォンソ5世(ポルトガル語: Afonso V、1432年1月15日 - 1481年8月28日[1])は、ポルトガル(在位:1438年 - 1481年)。ドゥアルテ1世アラゴンフェルナンド1世の娘レオノールの子。アフリカ王(: Africano)と呼ばれる。
生涯
生い立ちと即位

父王の急逝により、わずか6歳で即位した。王の遺言によりアフォンソの母后レオノールが摂政となったが、外国人ということで国民に支持されず、コルテス(議会)はドゥアルテ王の弟コインブラ公ペドロ王子を摂政に選んだ。

ペドロ王子は善政を行い、庶出の異母兄バルセロス伯アフォンソを初代ブラガンサ公にした(アフォンソはブラガンサ家の祖となった)。が、コインブラ公に代わり実権の掌握を狙うブラガンサ公は、幼いアフォンソ王に「摂政は王位を狙っている」と吹き込み、王はコインブラ公を敵視するようになった。

1443年、ドゥアルテ1世の弟フェルナンド聖王子[注釈 1]フェズで獄死した。遺骸は城壁から逆さに吊り下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ、壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にしたモロッコの貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、後にバターリャ修道院に埋葬した。
親政開始「モロッコ・ポルトガル戦争」も参照

1446年、アフォンソ5世は14歳で親政を始めた。もう一人の叔父エンリケ航海王子の斡旋により、コインブラ公ペドロは政治顧問に退き、国政の実権はブラガンサ公アフォンソとその息子オウレン伯アフォンソへ移った。

1448年、コインブラ公の娘(アルフォンソの従妹)であるイザベルと結婚する。2人の間には2男1女が生まれた。しかし1449年、コインブラ公が領地のコインブラの通過をブラガンサ公に認めなかった措置を発端に、アフォンソ5世はアルファホベイラの戦い(英語版)でコインブラ公を敗死させた。

1458年、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。1471年にはアシラーを征服(アシラー征服(英語版))し、さらにタンジェも征服した(ポルトガル領タンジェ)。これにより、モロッコでセウタ他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王を名乗った。
結婚とカスティーリャ介入「第二次カスティーリャ継承戦争(英語版)」も参照

同年、カスティーリャエンリケ4世の死去により、エンリケの異母妹イサベル(後のイサベル1世)とエンリケの長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女との間に、王位を巡って抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43歳の叔父と14歳の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。

アフォンソ5世は、この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になり、王太子ジョアンも同意したので、2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻した。


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