アフォンソ3世_(ポルトガル王)
[Wikipedia|▼Menu]

アフォンソ3世
Afonso III
ポルトガル国王
アフォンソ3世
在位1248年 - 1279年

出生 (1210-05-05) 1210年5月5日
ポルトガル王国コインブラ
死去 (1279-02-16) 1279年2月16日(68歳没)
ポルトガル王国リスボン
埋葬 ポルトガル王国アルコバッサ修道院
配偶者ブローニュ女伯マティルド・ド・ダンマルタン
 ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン
子女ブランカ
フェルナンド
ディニス1世
アフォンソ
サンシャ
マリア
コンスタンサ
ヴィセンテ
家名ブルゴーニュ家(ボルゴーニャ家)
王朝ブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)
父親アフォンソ2世
母親ウラカ・デ・カスティーリャ
テンプレートを表示

アフォンソ3世(Afonso III、1210年5月5日 - 1279年2月16日)は、第5代ポルトガル(在位:1248年 - 1279年)。ブローニュ伯でもあった(在位:1238年 - 1253年)。アフォンソ2世と王妃でカスティーリャアルフォンソ8世の娘ウラカ・デ・カスティーリャの次男で、第4代ポルトガル王サンシュ2世の弟。

1248年のアフォンソ3世の即位から1348年ペスト大流行に至るまでの100年は、ポルトガル史上重要な時代の一つに数えられている[1]。アフォンソ即位前のポルトガル王国は形式上はカスティーリャ王国と主従関係に置かれていたが、アフォンソ3世は即位するとカスティーリャと友好的な関係を構築して従属関係を打ち消し、ポルトガルは完全な独立により近づいた[2]
生涯
即位前

1210年5月5日にアフォンソ2世とウラカの子として、首都コインブラで誕生する[3]

1227年にアフォンソはフランス王国を訪れ、ルイ9世の下でイングランドヘンリー3世と交戦した。1238年にブローニュ女伯マティルド2世と結婚し、ブローニュ伯位を得る。

アフォンソがフランスに滞在している時、ポルトガルでは兄サンシュ2世と国内の聖職者の間に衝突が起きていた[3]1245年ローマ教皇インノケンティウス4世は新たなポルトガル王を選出するよう指示し、サンシュに代わる王としてアフォンソに白羽の矢が立った[3]。同年にアフォンソはパリで聖職者と協定を結び、ポルトガルに帰国した。1246年リスボンに到着したアフォンソはポルトガル南部を拠点としてサンシュと戦うが、苦戦を強いられる[3]。だが、サンシュが頼みにしていたカスティーリャ王国の援軍は到着せず、サンシュは王位を放棄してトレドに引き上げた。サンシュは子を遺さずに1248年にトレドで没し、アフォンソはポルトガル王位を継承した[4]
即位後

即位したアフォンソ3世は国内の支配を強化するため、ポルトガル南部に残存するイスラム教徒との戦争を開始する[3]1249年3月、イスラム教徒の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロシルヴェスを陥落させ、ポルトガルのレコンキスタは完了した。レコンキスタの完了後、ポルトガルの経済は略奪中心の軍事的な経済体系から生産・交易を主とする経済体系に転換していく[5]

1252年にカスティーリャ王に即位したアルフォンソ10世とアルガルヴェの支配権を巡って争い、翌1253年にインノケンティウス4世の仲裁によって一時的にアルガルヴェの統治権をカスティーリャに譲渡することを呑んで講和した[6]1263年にポルトガル・カスティーリャ間で結ばれた協定によってアルガルヴェの支配権は2歳のアフォンソ3世の王子ドン・ディニス(後のディニス1世)に与えられ[6]1267年までにポルトガルはアルガルヴェの領有権を確保することができた[7]。アフォンソ3世の死後に結ばれた1297年のアルカニセス条約によって、ポルトガルとカスティーリャの国境が確定する。

1253年のカスティーリャとの和平に際して、アフォンソ3世はマティルドと離婚し、代わってアルフォンソ10世の庶出の娘ベアトリス(ベアトリーセ)と再婚した。教会はアフォンソ3世の再婚に不快感を示したが、ポルトガル国民はベアトリスを歓迎し、王妃に対する敬意を払った[3]。1263年に教皇はアフォンソの2度目の結婚を認めたが、この時すでにベアトリスとの間にはドン・ディニスをはじめとする3人の子が生まれていた[2]

アフォンソ3世は民衆の支持の獲得に熱心であり、公正な裁判と保護を国民に約束した[2]。ポルトガル内における平民(第三階級)の影響力と経済力は増していき、1254年にアフォンソ3世が開催したレイリアコルテスには、有力コンセーリョ(地域自治体)の一員として初めて平民の代表者が参加した[8]。アフォンソ3世は貴族、僧侶の権力から都市を庇護し、都市部からの支持を強化した[3]1255年には首都をコインブラからリスボンへ移した。

1275年6月、教皇グレゴリウス10世は、かつてアフォンソ3世がポルトガル王位の承認と引き換えに教会に誓った忠誠を持ち出して服従を要求した[3]。アフォンソ3世は教会への服従を拒絶し、破門を宣告されるも死の直前に教会と和解し、1279年2月16日にリスボンで没した[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef