アビラ・ヒロン
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ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Giron, 生年不詳 - 1619年以後)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、約20年間にわたり、主に長崎に在住したスペイン人の貿易商人である。本人の経歴についてはほとんど知られていないが、自らの見聞を中心とした『日本王国記』を書き残したことで知られる。南蛮貿易時代の日本に関する、宣教師以外のヨーロッパ人の記録として珍しいものであり、史料価値も高い[1]
経歴

『日本王国記』の内容からスペイン人であることは確実で、おそらく貿易商人だと推定されているが、その出生地や、1590年フィリピンに渡航するまでの経歴は全く知られていない[2]

1590年、新任フィリピン総督のゴメス・ペレス・ダスマリニャス(英語版)とともにヌエバ・エスパーニャメキシコ)からマニラに渡航[2]。フィリピン滞在中、最高聴訴官ペドロ・デ・ロハス(英語版)から死刑を宣告されている。本人は冤罪と主張しているが、詳細は不明。日本に渡航したきっかけは、この事件による逮捕を免れるためであったと推定されている[2]

1594年文禄3年)、総督ルイス・ペレス・ダスマリニャス(英語版)が豊臣秀吉に対し、フランシスコ会アウグスティン・ロドリゲスマルセロ・デ・リバデネイラジェロニモ・デ・ジェズスらからなる使節団を派遣すると、使節団が乗った船に同乗し、8月27日に平戸に到着した。その後、長崎に居住する[3]

1594年に薩摩、1595年(文禄4年)に島原半島の有馬、1597年(慶長2年)に口之津、平戸に旅行している[3]

1598年慶長3年)はじめマカオに渡航、同年夏にいったん長崎に戻るが、秋にマニラに渡航。その後はしばらくアジア各地を転々とする。1599年にカンボジアシャムに旅行し、その後、マラッカに赴く。1600年にはインドに渡り、セイロン島、インド半島西岸などを訪れる。1604年にマカオに戻り、再度シャムに渡ったのち、1607年(慶長12年)7月6日、日本に戻る[4]

1614年(慶長19年)以後、教会の公証人に任命される[3]

1619年元和5年)3月15日付でドミニコ会フランシスコ・デ・モラレスの殉教を報告しており、この時点まで長崎に居住していたことが確認できる。しかし、その後の消息は一切不明である[5]。なお、1619年の時点で妻帯していたことが確認されているが、妻の国籍や子の有無は明らかになっていない[3]
『日本王国記』

原題は『転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告』(スペイン語: Relacion del Reino de Nippon a que llaman corruptamente Jappon)。

アビラ・ヒロンは、『日本王国記』の初稿(第1輯)を1598年に執筆したと記しているが、この原稿は発見されていない[6]。その後、第1輯をもとにして1615年3月18日までの記録を増補・訂正した第2輯が執筆され[6]、さらにその後、1619年3月15日までの記録を加筆した第3輯が執筆された[7]。第2輯の写本は、エル・エスコリアル図書館本、ローマ・イエズス会文書館本、マドリード国立図書館本の3種が現存している[8]。このうちイエズス会文書館本には、1590年から1614年まで日本に滞在していたスペイン人イエズス会ペドロ・モレホンによって、400あまりの注釈が書き加えられている[9]。なおモレホンは、『日本王国記』自体については「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と評している[10]

1883年に初めてスペインで公刊され、レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』などに引用された。その後、ドロテオ・シリング(Doroteo Schilling)とフィデール・デ・レハルサ(Fidel de Lejarza)による校訂が『アルチーボ・イベロ・アメリカーノ』(Archivo Ibero-Americano)誌に1933年から1935年まで連載された。ただし、スペイン内戦のため、第15章前半までで中断となっている[11]1965年(昭和40年)には、佐久間正会田由による日本語訳(佐久間正・岩生成一注)が、岩波書店大航海時代叢書』の1冊として刊行された(ルイス・フロイスの『日欧文化比較』との合本)。これはシリングとレハルサによる校訂本文を底本とし、第15章第2節以後は、直接、第2輯の写本に基づいて翻訳したものである。

内容は1549年天文18年)の三好政権成立から始まり、1615年(元和元年)3月にまで及んでいる[12]。この間、織田信長の台頭、本能寺の変(1582年)、山崎の戦い(1582年)、豊臣秀吉の政権掌握、バテレン追放令(1587年)、朝鮮出兵豊臣秀次の切腹、慶長伏見地震(1596年)、サン=フェリペ号事件(1596年)、ロドリゴ・デ・ビベロの日本漂着(1609年)、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(1610年)、大坂の陣(1614 - 15年)など、日本で起こった重要な事件の多くを記載している[13][14]。うち、信長の事績については、信長と親交のあったグレゴリオ・デ・セスペデスからの資料提供を受けており、伏見地震についてはジェロニモ・デ・ジェズズおよび日本人からの聞き取りを行っている[10]。また、京都の三条河原で盗賊団が生きたまま油で煮られた、という記事があり、モレホンがこの盗賊の名を石川五右衛門と注記していることから、この盗賊の実在が確認されることになった[15]

なお、内容の半分以上はキリシタンの布教・迫害史にあてられており、特に1597年の日本二十六聖人の殉教や、1614年の高山右近内藤如安らの国外追放については、長崎で実見したことを詳細に記録している[16]


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