アビエイ
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この項目では、領有権問題のある地域について説明しています。同地域の都市については「アビエイ (町)」をご覧ください。

アビエイ地域
????? ????
Abyei Area
アビエイ特別行政区
Abyei Special Administrative Area[1]
特別な行政地位にある地域



印章


.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯9度35分42秒 東経28度26分9.6秒 / 北緯9.59500度 東経28.436000度 / 9.59500; 28.436000
スーダン
南スーダン
包括和平協定2005年1月9日
中心地アビエイ
政府
 ? 行政長官Chol Deng Alak[2] (SPLM)
面積[3]
 ? 合計10,547.28 km2
人口(2020年推定)[4]
 ? 合計82,749人
 ? 密度7.8人/km2
等時帯UTC+2 (中央アフリカ時間)

アビエイ(アラビア語: ????‎、英語: Abyei) は、アフリカ大陸北東部の内陸部、スーダン共和国(北スーダン)と南スーダン共和国の国境にある地域で、両国が領有権を主張している。面積は第二次スーダン内戦の包括和平協定(英語版) (CPA) におけるアビエイ紛争の解決の取り決めでは、1905年コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とする地域をアビエイ地域と定め[5]、その帰属はアビエイ地域の住民の住民投票により決定されるとした。しかし、どこまでをアビエイ地域の住民と定義するかで、南北スーダンの主張に相違があり、現在もまだ住民投票が行われておらず、アビエイ地域がどちらに帰属するか決定されていない。

2005年の協定により帰属が決定するまでアビエイは両国の一部として扱われており、事実上の共同主権地と捉えられている[6]。アビエイには特別な行政上の地位が与えられており、両国から選出された議員から成る執行評議会が統治している。また民間人および人道支援活動家の保護を目的に国際連合平和維持活動(PKO)の国際連合アビエイ暫定治安部隊(英語版)(UNISFA)が展開している[7]

スーダンから南スーダンが独立する以前は、スーダンのコルドファン地域南部の地名であった。アビエイ地域の南西部にアビエイの町がある。なおスーダンでは西コルドファン州アビエイ地区の一部、南スーダンではワラブ州アビエイ郡として扱われていた。
歴史

遅くとも18世紀以降アビエイ地域にはディンカのンゴック氏族が暮らしてきた。北東には牛飼いのアラブ系遊牧民ミッセリア(英語版)が住んでいて年周期でアビエイ地域にもやってきた。記録上当時ミッセリアとンゴックは友好的な関係だった。イギリス=エジプト領スーダンが成立すると当初ミッセリアはコルドファン(北部)に組み込まれ、ンゴックはバハル・エル=ガザル(南部)に組み込まれた。しかし1905年にイギリスはンゴックの9つの首長国をコルドファンに組み入れた[8][9]

両民族の関係も第一次スーダン内戦を通して悪化していった。1965年にはミッセリアのババヌーサで72人のンゴックが虐殺される事件も起きた。これらによりンゴックはアニャニャ(英語版)に参加し、ミッセリアは北部政府に付いた。1972年のアディスアベバ合意ではアビエイ地域が北部に残るか南部に加わるかの住民投票を行う条項があった。この住民投票は実施されず、ンゴックへの攻撃が続き、第二次内戦に至る上ナイル州での蜂起に繋がった。1975年にシェブロンによりこの地域に油田が発見されると南北境界の油田地帯を北部に組入れるためジャーファル・ヌメイリは地域区分の組替えを始めた[9]

多くのンゴックが反乱軍に加わり、ンゴックの部隊は1983年からの第二次スーダン内戦の反政府軍の中核の一つとなった。早くから参加したンゴックはスーダン人民解放軍 (SPLA) で指導的地位に登り、ジョン・ガランとも関係が深くなった。ミッセリアも北部側で参戦し、ムラフリーンと呼ばれる部隊を結成し、南部の村を襲い人やモノを略奪した[10]。戦争終結までにほとんどのンゴックは戦闘でアビエイ地域から追い出され、ミッセリアが領有の正当化を主張した[8]
原油埋蔵量と生産

アビエイは大量の炭化水素の累積が見込まれる大地溝帯であるムグラド盆地(英語版)に位置し、1970年代から油田探査が始まった。1990年代に投資が活発化し、アビエイもその対象となった。2003年までにアビエイはスーダンの原油生産の4分の1以上を占めるようになった。以降の報告ではアビエイの埋蔵量は減少している。主要なパイプラインの一つは、中国資本の中国石油天然気集団公司によって運営されている大ナイル石油パイプライン(英語版)で、ユニティ油田からヘグリグ油田を経てアビエイを通り、さらにヌバ山地(英語版)を超えて北部スーダン側に入りハルツームを経て紅海のポートスーダンまでを結んでいる。このインフラは1999年の操業以来好景気が続くスーダンの石油輸出の綱となっている[11][12]
和平協定上の取り決め.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  北部スーダン   ダルフール   2006年7月時の東部戦線活動地域   南部スーダン   アビエイ境界委員会   ヌバ山地と青ナイル アビエイは2011年に南部スーダンへの帰属を問う住民投票を行う

アビエイ地域の地位は包括和平協定における最重要課題の一つであった。最初に調印されたマチャコス協定では南部スーダンの領域は1956年のスーダン独立時のものであった。これには交渉で三地域と呼ばれたSPLAの拠点、アビエイ、ヌバ山地、青ナイルが含まれなかった。SPLAはこの地域に帰属を決める住民投票の権利を認めさせるために数年間を費やした。これはこれらの地域が潜在的に2011年南部スーダン独立住民投票で南部に参加することを意味する。北部政府は三地域はマチャコス協定で北部への帰属を望んだと主張した[13]。これには米国の大統領特使ジョン・ダンフォースも住民投票を含む協定に調印するように圧力をかけた。

アビエイ紛争の解決の取り決めはアビエイ地域を大統領直轄の特別行政地域とした。アビエイ地域に居住しているミッセリアを認定するための住民投票委員会に続いて、領域の正確な境界はアビエイ境界委員会 (ABC) によって決定されることになり、その結果2009年の地方選挙の際に投票することになった。全てのンゴックは伝統的な故郷の住民であると考えられるが、取り決めの細目は実施されていない[14]

2004年12月取り決めの追加条項によりABCは北部から5人、SPLAから5人、政府間開発機構から3人、米英から1人ずつの15人から構成された。ナイロビ大学のゴッドフリー・ムリウキ、アディスアベバ大学のカサフン・ベルハヌ、南部スーダンに関する著書のあるダグラス・ジョンソン、南アフリカの法律家シャドラック・グット、元米駐スーダン大使ドナルド・パターソンの5人の中立な専門家が最終報告書を提出した[8]。ABCは同意された手続きに則りアビエイの町より87kmの北緯10度22分30秒の線を境界に定めた[15]

ABCは2005年7月14日に報告書を大統領に提出したが、政権は拒絶した。月末のジョン・ガランの死で他の議題に押し出されたが、SPLAはアビエイの取り決めの履行を求めた[14]。北部側の合意への抵抗は石油とパイプラインに関する利益の保持を図るためである[16]


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