アヒラム王の石棺
アヒラム王の石棺の現状(レバノン)
材質石灰岩
文字フェニキア文字
製作紀元前850年ごろ
発見1923年
所蔵ベイルート国立博物館
アヒラム王の石棺(アヒラムおうのせっかん、英語: Ahiram sarcophagus、名はアヒロムとも)は、ビブロスのフェニキア人の王(紀元前850年ごろ)のサルコファガス(石棺)で[1]、1923年にフランスのエジプト学者で発掘家のピエール・モンテによって、ビブロスの王家のネクロポリスにある墓Vから発見された。アヒラムは他のオリエントの資料からは実証されないが、一部の学者は聖書に言及されているヒラム王と関係する可能性を提示している。
石棺はその浅浮き彫りの彫刻とフェニキア語碑文によって有名である。現在知られるビブロス王の5つの碑文のひとつであり、この碑文は完全に発達したフェニキア文字の最古の碑文と考えられている[2]。一部の学者にとって、碑文はフェニキア文字がヨーロッパに伝来した時期の上限の姿を表している[2]。 石棺が作られた年代については現在も議論が分かれる。Glenn Markoeによると、「大部分の学者はアヒラム碑文は紀元前1000年ごろのものと考えている[3]。」クックは[4]、ガルビーニによる紀元前13世紀説[5]を検証して却下した。ガルビーニ説はバナールによって推進された古い時期の設定の主要な典拠であった[6]。石棺のレリーフそのもの、ひいては碑文を紀元前9-8世紀のものとする議論は、比較美術史と考古学を基礎にするもの[7]、古文字学を基礎にするもの[8]がある。 1923年後半にビブロス(今のレバノンのジュベイル)の町を囲むがけのがけ崩れによって、多数のフェニキアの王墓があらわになった。アヒラムの墓は10メートルの深さがあった[9][10][11]。 アヒラム王の石棺はフランスのエジプト学者ピエール・モンテによって1923年に発見された[12][13][14]。浅浮き彫りによって彫刻が施された石板は、この石棺を「初期鉄器時代のフェニキアの主要な芸術的記録[15]」にした。伴出品が後期青銅器時代に属することは、石棺がより早い紀元前13世紀に属するという説を支持するものか、またはより早い時代のシャフト(竪穴)墓を鉄器時代に再利用したことを実証する。 主要な情景は、翼をもつスフィンクスが彫られた玉座に座る王を描いている。女性の祭官が王にハスの花を捧げている。石棺の蓋には2人の男性像が向きあっており、その中間には座ったライオンたちが描かれている。Glenn Markoeはこれらの像を碑文に記された父と子を表したものと解釈している。人物像の描きかたや、玉座と机のデザインはアッシリアの強い影響を示す[15]。エジプト第20王朝と第21王朝の影響がフェニキアにまったく見られないことは[16]、エジプト第22王朝におけるフェニキアとエジプトの間の関係回復と鋭い対照をなす[17]。
年代
石棺の発見レリーフ
碑文