アパルトヘイト
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ダーバンビーチ条例第37節に基づき、この海水浴場は白人種集団に属する者専用とされる」と英語アフリカーンス語ズールー語で併記された1989年撮影の標識

アパルトヘイト(アフリカーンス語: Apartheid)は、アフリカーンス語で「分離隔離」を意味する言葉で、南アフリカ共和国における白人と非白人[注 1]の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。

かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。
内容英語アフリカーンス語で、白人専用と書かれた海水浴場の看板。犬の標識は、犬の連れ込み禁止を意味する。アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち(1980年代)詳細は「en:Apartheid legislation」を参照

アパルトヘイトという言葉は、1913年の「原住民土地法(英語版)」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。アパルトヘイトとは、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ様々な差別立法を背景に1948年の純正国民党政権誕生によって確立された政策方針のことである。アパルトヘイト以前に、すでに「鉱山労働法(英語版)」(1911年)、原住民土地法(1913年)、産業調整法(1926年)、背徳法(1927年)などの差別的立法が成立していたが、国民党が政権を握って以降「集団地域法(英語版)」「人口登録法[注 2]」「投票者分離代表法(英語版)」「バントゥー教育法」「共産主義鎮圧法(英語版)」「テロリズム法」などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立した。
選挙権

ケープ州においては、カラードは1853年の議会開設以来選挙権を持っていたが、1951年に議会は、カラード代表議員(白人)の選出を認める代わり白人とカラードの選挙人名簿を分離する「投票者分離代表法(英語版)」法案を提出。最高裁が再三違憲判決を下したものの、1956年にはカラードの選挙権はカラード代表議員を選出するだけのものとなり、1970年にはカラード代表議席と黒人代表議席すら廃止(議員は白人に限定)され、選挙権は白人だけのものとなった[1]

1970年に制定された「バントゥー・ホームランド市民権法(英語版)」により、黒人は民族毎に指定した10のバントゥースタンの市民とされ、これらのバントゥースタンを「独立国家」とすることで、黒人を外国人に仕立て上げようとした。このため、「独立[注 3]」を宣言したトランスカイシスカイボプタツワナヴェンダの「国民」は外国人として扱われ、名実共に南アフリカ国民であることを否定された。
就業

アパルトヘイト以前から存在した上記の1911年の「鉱山労働法(英語版)[注 4]」、1913年の「原住民土地法(英語版)[注 5]」、1926年の「産業調整法」をはじめとする各種法律によって、黒人には低賃金所得のみがあてがわれ、南アフリカの資本主義は発達した[注 6]

アパルトヘイトが本格化すると、1951年の「原住民建築労働者法(英語版)[注 7]」や、1953年の「原住民労働者法(英語版)[注 8]」、1956年の「産業調停法(英語版)[注 9]」など、就業制限に限らず各種の待遇や制限で、白人労働者には手厚い保護を与える一方で黒人労働者には劣悪な労働条件を課した。

黒人は白人が経営する農園や工場で働き、1970年には平均して白人の工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料を得るようになっていた[2]

こうした方針は「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展すべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」という多文化主義による合理的な政策であると主張されていた。
居住

1913年制定の「原住民土地法(英語版)」により、南アフリカ全土のうち南アフリカ連邦政府が指定した地域[注 10]のみに黒人の土地所有権を認めたが、それ以外の地域における黒人の土地所有権を否定し、黒人が白人から家屋や土地を買い取って所有することができなくなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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