アパルトヘイト(アフリカーンス語: Apartheid)は、アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する言葉で、南アフリカ共和国における白人と非白人[注 1]の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。
かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。
内容英語とアフリカーンス語で、白人専用と書かれた海水浴場の看板。犬の標識は、犬の連れ込み禁止を意味する。アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち(1980年代)詳細は「en:Apartheid legislation」を参照
アパルトヘイトという言葉は、1913年の「原住民土地法(英語版)」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。アパルトヘイトとは、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ様々な差別立法を背景に1948年の純正国民党政権誕生によって確立された政策方針のことである。アパルトヘイト以前に、すでに「鉱山労働法(英語版)」(1911年)、原住民土地法(1913年)、産業調整法(1926年)、背徳法(1927年)などの差別的立法が成立していたが、国民党が政権を握って以降「集団地域法(英語版)」「人口登録法[注 2]」「投票者分離代表法(英語版)」「バントゥー教育法」「共産主義鎮圧法(英語版)」「テロリズム法」などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立した。 ケープ州においては、カラードは1853年の議会開設以来選挙権を持っていたが、1951年に議会は、カラード代表議員(白人)の選出を認める代わり白人とカラードの選挙人名簿を分離する「投票者分離代表法
選挙権
1970年に制定された「バントゥー・ホームランド市民権法(英語版)」により、黒人は民族毎に指定した10のバントゥースタンの市民とされ、これらのバントゥースタンを「独立国家」とすることで、黒人を外国人に仕立て上げようとした。このため、「独立[注 3]」を宣言したトランスカイ、シスカイ、ボプタツワナ、ヴェンダの「国民」は外国人として扱われ、名実共に南アフリカ国民であることを否定された。 アパルトヘイト以前から存在した上記の1911年の「鉱山労働法
就業
アパルトヘイトが本格化すると、1951年の「原住民建築労働者法(英語版)[注 7]」や、1953年の「原住民労働者法(英語版)[注 8]」、1956年の「産業調停法(英語版)[注 9]」など、就業制限に限らず各種の待遇や制限で、白人労働者には手厚い保護を与える一方で黒人労働者には劣悪な労働条件を課した。
黒人は白人が経営する農園や工場で働き、1970年には平均して白人の工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料を得るようになっていた[2]。
こうした方針は「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展すべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」という多文化主義による合理的な政策であると主張されていた。 1913年制定の「原住民土地法
居住
都市部においても1950年に制定された「集団地域法(英語版)」に基づいて人種別に居住区の割り当てが行われ、自身が属する人種グループに割り当てられた地域以外での居住は違法とされたほか、1953年制定の「隔離施設留保法(英語版)」では道路を除いたあらゆる公共施設や公共車両、飲食店などにおいて人種別に専用の施設を用意することが義務付けられ、白人と黒人の居住区および生活圏を法的にくっきりと分けられた。差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は約500万人程度である(黒人の20%以下)[注 11]。さらに1959年に全面的なアパルトヘイト構想としてバントゥースタン計画が立案された。具体的には1959年制定の「バントゥー自治促進法(英語版)」により民族や部族単位に自治区を設ける[注 12]政策が実施された。 1953年に制定された「バントゥー教育法」により、黒人に対する教育はキリスト教会系のミッションスクールから国家の元に移管されたが、一人当たりの白人生徒の教育予算は、黒人生徒の10倍程度であったほか、黒人については義務教育ではなかった。 アパルトヘイト以前は、ウィットウォーターズラント大学やケープタウン大学、ナタール大学では白人と黒人は共学であり、黒人向けのフォートヘア大学も存在したが、1959年に可決された「大学教育拡張法
教育分野