この項目では、ブロードウェイ ミュージカルについて説明しています。その他の用法については「アニー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Annie
作曲チャールズ・ストラウス
『アニー』(Annie)は、ハロルド・グレイ(英語版)の新聞連載漫画『小さな孤児アニー(Little Orphan Annie)』を原作として製作されたブロードウェイ・ミュージカルである。1982年、1999年、2014年の計3回映画化されている。 舞台は1933年、世界大恐慌直後の真冬のニューヨーク。街は仕事も住む場所もない人で溢れ、誰もが希望を失っていた。そんな中、どんな時も夢と希望を忘れないひとりの少女がいた。ニューヨーク市立孤児院に住む11歳の赤毛の女の子、アニーだ。10年前に孤児院の前に捨てられていたアニーは、いつか本当の両親が迎えに来ると信じて暮らしていた。ある日、なかなか迎えに来ない両親を自分から探しに行こうと、院長のミス・ハニガンに見つからないよう、こっそり孤児院を脱け出す。野犬と出会いサンディーと名づけ、サンディーを連れながらニューヨーク中を探し回る。家をなくした人達が集まるフーバービルと呼ばれていた貧民街に逃げこんだが、警官に捕まって孤児院に連れ戻される。 クリスマス休暇を一緒に過ごす孤児を探していた大富豪オリバー・ウォーバックスの秘書グレースと孤児院で出会ったアニーは、ウォーバックスの自宅で休暇を過ごすことになる。前向きなアニーに魅かれたウォーバックスは、アニーを気に入り、養女にしたいと考える。しかしアニーは、自分の両親がまだ生きていると信じていて、本当の両親と暮らしたいという夢を持っていた。彼女が親を探すのに持っていた手がかりは半分に割れたロケットのみだった。 けなげなアニーの気持ちに心打たれたウォーバックスは、彼女の本当の両親を見つけたものに5万ドルの報奨金を与えると公表する。お金を目当てに大勢の人々が自分こそアニーの親だと名乗りをあげ、これに目を付けた孤児院の院長のハニガンとその弟のルースターらも、この金をだまし取ろうと画策する。 ウォーバックスと共にホワイトハウスを訪れたアニーは、閣僚たちを目の前にして希望を失わないよう説き、彼女の言葉に感銘を受けたフランクリン・ルーズベルトはニューディール政策を発案する。 ルースターは変装してウォーバックス宅に現れ、アニーの親を偽るが、FBIの捜査によってアニーの両親は既に火事により数年前に死亡[1]していたと判明、ハニガンらの企みは失敗。アニーはウォーバックスの養女となった。 『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、『アニー』はアメリカ国内だけで毎年700から900回上演されている[2]。 1976年8月10日、コネチカット州イースト・ヘイダムにあるグッドスピード・オペラ・ハウスにて、エグゼクティヴ・プロデューサーであるマイケル・P・プライスの演出により初演された。クリステン・ヴィガードがアニー役に配役された。しかしプロデューサーたちはヴィガードは厳しい環境を生き抜く孤児の役には合わないと考えた。1週間上演ののち、アニー役はほかの孤児であるペッパー役を演じていたアンドレア・マカードルに交代となった。ブロードウェイ公演においてヴィガードはマカードルの代役となった。 1977年4月21日にブロードウェイのアルヴィン劇場でオリジナル・ブロードウェイ・プロダクションが開幕し、アニー役はアンドレア・マカードル、ウォーバックス役はレイド・シェルトン、ミス・ハニガン役はドロシー・ラウドン、グレース・ファレル役はサンディ・フェイソンが演じた。ダニエル・ブリズボワは孤児役の1人であった。同年のトニー賞に於いて11部門にノミネートされ、ミュージカル作品賞、作曲賞、ミュージカル脚本賞を始め7部門を受賞した。当時子役であったシェリー・ブルース、サラ・ジェシカ・パーカー(1978年?80年)、アリソン・スミス、アリソン・カークなどがアニー役代役となった。アリス・ゴストリー、ドロレス・ウィルソン、ベティ・ハットン、マーシャ・ルイス、ジューン・ハヴォックなどがミス・ハニガン役代役となった。アン・アンガーがミス・ハニガン役のラウドン、ゴストリー、ウィルソンの代役を務めた[3]。1983年1月2日まで、2,377回を数えるロングラン公演となり、アルヴィン劇場(現:ニール・サイモン劇場)において2009年に『ヘアスプレー』に抜かれるまで最長上演回数の記録を所有していた[4]。 ブロードウェイでヒットするや、4つのツアーカンパニーが編成され、北米各地で行なわれた。 1978年3月、1組目の北米ツアー・カンパニーはトロントで開幕し、アニー役はキャシー・ジョー・ケリー、ウォーバックス役はノーウッド・スミス、ミス・ハニガン役はジェーン・コネルおよびルース・コバート、ルースター役はゲイリー・ビーチが演じた。4月12日から5月13日までマイアミで上演され、その後いくつかの都市で上演ののちシカゴで32週間上演された。1979年4月、アニー役がメアリー・K・ロンバーディに交代してツアーが続けられた。ロンバーディが成長し過ぎたため、1980年秋、ボストン公演からセダ・ステムラーに交代した。1981年5月15日から、ロサンゼルスのロングラン上演で アニー役を演じていたルアン・シロタが4か月間出演した。1981年8月、ベッキー・スナイダーがこのカンパニー最後のアニー役となり、9月6日に閉幕した。 1978年6月22日、西海岸プロダクションまたはロサンゼルス・プロダクションとも呼ばれる2組目の北米ツアー・カンパニーがサンフランシスコで開幕した。アニー役はパトリシア・アン・パッツ、ペッパー役はジェニファー・チヒが演じたほか、当時無名であったモリー・リングウォルドが孤児の1人を演じていた。10月15日からロサンゼルスにあるシュバート劇場にて無期限の公演が開幕した。1979年6月12日、当時アニー役は通常11歳の子役が演じていたが、パッツ役を演じていた9歳のシロタがアニー役に配役された。12月、マリサ・モレルがアニー役に配役され、ロサンゼルス公演閉幕後、1980年12月までツアー公演が続行された。1981年、アリッサ・ミラノが孤児の1人を演じ、1982年1月23日にフィラデルフィアで閉幕するまでクリスティ・クームスがアニー役を演じた。 1979年10月3日、3組目の北米ツアー・カンパニーがダラスで開幕した。1982年の映画『アニー』でペッパー役を演じることとなるロザンヌ・ソレンティノがアニー役を演じた。23都市を短期間の上演で巡業した。1981年3月27日、アニー役がブリジット・ウォルシュに交代した。1982年夏、1組目のクロージング・キャストであったスナイダーが参加し、9月に閉幕した。 1981年9月11日、4組目の北米ツアー・カンパニーが開幕し、アニー役はモリー・ホールが演じた。出演者の少ない「バス&トラック・ツアー」として、週に2都市で上演することもあった。1983年1月にブロードウェイ・プロダクションが閉幕した後も続行された。オリジナル・プロダクションに出演していたキャスリーン・シスクが最後のアニー役となり、1983年9月に閉幕した。 1978年5月3日、ウエスト・エンドにあるヴィクトリア・パレス・シアターにて開幕した。オリジナル・ブロードウェイ・キャストのアンドレア・マカードルがアニー役で40回出演した。12歳のイギリス人アン・マリー・グワトキンもアニー役に配役され、オリジナル・ロンドン・キャスト・レコーディングに参加した。オープニング・キャストおよびオリジナル・サウンドトラックの子役はクレア・フッド、ジェーン・コリンズ、ダウン・ネピア、アネット・メイソン、ヘレン・スティーブンソン、ジャッキー・イーカーズ、リンダ・ブリュウィスであった。グワトキンはクリスティン・ハイランドと交代で出演し、ほかにアン・オルーク、ジャシンタ・ホワイト、ヘレン・ソーン、ローザ・ミシェルの4名がアニー役に配 役され、翌年まで演じた。グワトキンとイーカーズがダブル・キャストとなり、その後様々な子役がアニー役を演じた。シェリア・ハンコックがミス・ハニガン役のオリジナル・キャストとなり、その後マリア・チャールズ、ステラ・モレイがミス・ハニガン役を演じた。ウォーバックス役はストラトフォード・ジョーンズが演じ、その後チャールズ・ウエストが演じた。ペッパー役はデボラ・クラーク、モリー役はメラニー・グラントが演じた。1,485回上演ののち、1981年11月28日に閉幕した。 1981年のクリスマス時期、ウエスト・エンド公演はブリストル・ヒポドロムに移行し、その後全英ツアーを行なった。イギリスでは子役の労働法が厳しく、4か月ごとにアニー役を交代せねばならなかった。
ストーリー
プロダクション
1976年、試験興行
1977年 - 1983年、ブロードウェイ・オリジナル・プロダクション1977年、アンドレア・マカードル、レイド・シェルトン、サンディ
1978年 - 1983年、北米ツアー・カンパニー
1978年 - 1981年、ウエスト・エンド・オリジナル
1981年、全英ツアー
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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