アニー・ベサント
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アニー・ベサント
Annie Besant
1897年時(50歳)
誕生1847年10月1日
イギリス
イングランドロンドン
死没 (1933-09-20) 1933年9月20日(85歳没)
イギリス領インド帝国、アディヤール
職業作家演説
女性の権利積極行動主義
アイルランド&インドの自治支援者
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アニー・ウッド・ベサント(Annie Wood Besant, ベザントとも表記されるが発音は「b?s?nt」, 1847年10月1日 ロンドン、クラパム - 1933年9月20日 インド、アディヤール)は、イギリス神智学徒、女性の権利(Women's rights)積極行動主義者、作家演説家、アイルランドおよびインドの自治支援者、神智学協会第2代会長、英国フリーメイソンの国際組織ル・ドロワ・ユメン創設者[1]インド国民会議派議長(1917年)。
初期の人生

ロンドンのアイルランド系の中流階級の家に生まれた。自分がアイルランド人であることは常にアニーの誇りであり、大人になってからアイルランド自治運動を支援する動機となった。5歳で父親が亡くなった時、一家はほとんど文無しの状態だった。母親はハーロー校の生徒たち向けの下宿を経営して家族を養ったが、アニーまで養うことができず、友人のエレン・マリアット(海洋冒険小説の元祖フレデリック・マリアットの妹)にアニーの面倒を見てくれるように頼んだ。マリアットは承諾し、アニーに優れた教育を受けさせた。アニーはそこで社会への義務、ならびに自立した女性がなすべきことに対する強い意識を身につけた。また、ヨーロッパを旅して回り、そこでアニーは終生失うことがなかったカトリック的心構えと作法を身につけた。アニー・ベサント、1869年

1867年、19歳の時、アニーはビクトリア朝を代表する文学者サー・ウォルター・ベサント(Walter Besant)の弟でイングランド国教会福音主義派の聖職者フランク・ベサント(当時26歳)と結婚した。まもなくフランクがリンカンシャー、Sibseyの教区主任牧師になり、夫婦はSibseyに移り住み、2人の子ディグビーとメイベル(Mabel)をもうけた。しかしこの結婚は幸せではなかった。最初の諍いは、金とアニーの自立から起こった。アニーは児童向けの短編小説と論文を書いたが、既婚女性は法的に財産を所有する権利を持たなかったので、アニーの収入はすべてフランクのものとなったのである。さらに政見の違いも夫婦の溝を深めた。アニーは農園労働者の待遇改善のための支援をはじめたが、フランクはトーリー党で、地主と農業経営者の味方だった。アニーが聖餐に参加するのを拒否した時、ついに二人は破局し、アニーは娘を連れて夫の元を去り、ロンドンに戻った。

アニーは自分の信仰に疑問を持ち始め、指導的な聖職者にアドバイスを求めた。その中には、イングランド国教会カトリック派の指導者、エドワード・ブーヴァリー・ピュージー(Edward Bouverie Pusey)もいて、ピュージーは率直に、アニーにたくさんの本を読むように勧めた。アニーは復縁を考え、フランクのところに戻ったが、やはり無理だと悟った。フランクにとって離婚はとうてい受け入れられないもので、結局、アニーは生涯「ベサント夫人」のままだった。アニーはメイベルを引き取り、フランクからわずかながら養育費も受け取った。しかし、2人の子供の単独親権はフランクにあった。
バーベック時代1874年にアニーが住んでいたロンドン、Colby Roadの家とプラーク

アニーはしばらくの間、ロンドン大学バークベック・カレッジでパートタイムスタディーを受講した。そこでアニーの宗教的・政治的活動が学校側の警戒を招いた。学校理事たちはアニーの試験結果を無効にしようとした[2]
改良者かつ政教分離原則主義者ロンドンの記念碑

アニーは自分が正しいと思うことのために戦った。思想の自由(Freedom of thought)、女性の権利、政教分離原則(アニーはチャールズ・ブラッドローとともに英国世俗協会の指導的メンバーだった)、避妊フェビアン協会労働基本権などである。

夫からの解放と新思潮に接したことで、アニーは自分が長い間持ち続けていた宗教的信条のみならず慣習的な考えにも疑問を持ち始めた。アニーは教会、および教会が人々の生活をコントロールするやり方を攻撃する文章を書き出した。とくに攻撃の的としたのは、国家信条としてのイングランド国教会だった。

まもなくアニーは英国世俗協会(National Secular Society)の機関紙「National Reformer」にコラムを書き、わずかながらも週給を得るようになった。この協会は、キリスト教を特別視しない政教分離国家を目指して設立されたものである。英国世俗協会はアニーが演説家として行動することを認めた。講演はヴィクトリア朝時代とても人気がある催しだった。アニーは才能のある演説家で、すぐに多くの講演依頼が舞い込むようになった。アニーは国中を回り、当時のあらゆる重要問題について、進歩・改良・自由を求める講演を行った。

アニーは長年にわたって英国世俗協会のリーダー、チャールズ・ブラッドロー(Charles Bradlaugh)と友人だった。ただし、親友ではあったが、恋愛関係はなかったようである。元船乗りのブラッドローは長年妻と別居していた。アニーはブラッドローとその娘と一緒に暮らし、共同で多くの問題に取り組んだ。ブラッドローは無神論者かつ共和主義者で、ノーサンプトンからの議員選出を目指していた。

1877年、アメリカの「避妊」運動家チャールズ・ノウルトン(Charles Knowlton)の著書を出版したことで、アニーとブラッドローはさらに有名になった。その本は労働者階級家庭は何人の子供たちが欲しいかを決められるようになるまでは幸福になれないと訴え、家族の数を制限する方法を提案した本だった。教会の猛反発を食らったが、アニーとブラッドローは機関紙「National Reformer」にこう書いた。「我々は道徳的正当性を主張できないと思う本を一冊たりとも出版するつもりはない。我々が出版した本はすべて弁護できうる」。イギリス議会の庶民院

しかし、この本のために、アニーとブラッドローは逮捕された。裁判では、主張については保留のまま、有罪の判決を受けた。しかし、自由党系新聞が二人を支持し、法廷同様に紙面でも賛否両論の意見が入り乱れた。これにより、二人の刑務所行きは見送られ、最終的に、訴訟は取り下げられた。だが、このスキャンダルでアニーは娘たちを失うことになった。フランクがアニーには子供を育てるには不適格と法廷を説き伏せたのである。一方、ブラッドローはこのスキャンダルをものともせず、1881年、国会議員に当選した。しかし無神論者のため、忠誠の誓いを拒否した。多くのキリスト教徒はそのことにショックを受けたが、自由党ウィリアム・グラッドストンなどはブラッドローの信仰の自由を擁護した。一連の問題がおさまるまでに6年以上の歳月がかかった。

アニーはアイルランド自治運動と密接な繋がりを持ち、新聞のコラムでそれを支援した。その時期は、アイルランド民族主義者が自由党ならびに急進派(Radicals)と同盟を結んだ重要な時期だった。アニーは運動の指導者たちと会い、土地戦争(地主との直接闘争)を通じてアイルランド人農民の結集を求めたマイケル・ダヴィット(Michael Davitt)とも知己を得た。アニーはそれから10年間ほど、何度となくダヴィットとその「土地同盟」を支持する文を書き、講演した。一方で、ブラッドローの議員活動とは距離を置いた。当時は、議会政治において女性の出る幕がなかったのである。アニーは演説家・作家・オルガナイザーとして、真の利益をもたらすことができる政治的な表現手段を模索した。
社会主義者1880年代

アニーにとって、政見・友情・恋愛は常に密接に絡み合っていた。社会主義へのアニーの支持は、ロンドンに住む若きアイルランド人作家でフェビアン協会に属していたジョージ・バーナード・ショーとの出逢いを生んだ。アニーはショーの作品に感銘を受け、1880年代初期に二人は密接な関係になった。アニーはショーに同棲を持ちかけるが、ショーは拒否。しかし、ショーはアニーがフェビアン協会に入る時の保証人になってくれた。フェビアン協会はこの時期、資本主義体系に代わる政治的集団というよりは、むしろ精神的なものを探求するグループだった。

アニーはフェビアン協会のために文章を書き始めた。そのこととショーとの関係が、個人主義者であらゆる種類の社会主義に反対の立場を取るブラッドローとアニーとの間に亀裂を生じさせた。ブラッドローはどんな犠牲を払っても自由を擁護する一方で、労働者階級闘士を鼓舞することにはかなり慎重だった。

「失業」は当時の重要な問題で、1887年、ロンドンの失業者たちの何人かがトラファルガー広場で抗議運動を行った。11月13日の会合で、アニーは演説をすることになった。だが警察はそれを阻止しようとして、争いが起こり、軍隊が招集された。


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