アニー・チャップマン
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アニー・チャップマン
Annie Chapman
1869年の写真
生誕イライザ・アン・スミス
1841年頃
イングランドロンドン
死没1888年9月8日(1888-09-08) (およそ47歳)
イングランド・ロンドン
遺体発見ロンドンのスピタルフィールズ(英語版)のハンベリー・ストリート29番地
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度31分13.35秒 西経0度4分21.20秒 / 北緯51.5203750度 西経0.0725556度 / 51.5203750; -0.0725556 (Site where Annie Chapman body was found in Whitechapel)
職業花売り、クローシェ編み、乞食
配偶者ジョン・チャップマン
(m. 1869; 別居 1884)
子供3
親ジョージ・スミス
ルース・チャップマン

アニー・チャップマン(: Annie Chapman、出生名: イライザ・アン・スミス <英: Eliza Ann Smith>、1841年頃 - 1888年9月8日)は、有名な連続殺人者切り裂きジャックの被害者として知られている。
生涯

アニー・チャップマンの父はライフガーズ第2連隊所属のジョージ・スミス (英: George Smith)、母はルース・チャップマン (英: Ruth Chapman) だった。アニーが生まれた後、両親は1842年2月22日にパディントンで結婚した。スミスは結婚したときは兵士だったが、後に召使になった。
結婚

1869年5月1日、アニーは母方の親類であり、御者の仕事をしていたジョン・チャップマン (英: John Chapman) と結婚し、ロンドンのナイツブリッジ地区にあるオール・セインツ教会で式を挙げた[1]。数年間、夫婦はウェスト・ロンドンに居住し、3人の子供を儲けた。エミリー・ルース・チャップマン (英: Emily Ruth Chapman、1870年6月25日生)、アニー・ジョージーナ・チャップマン (英: Annie Georgina Chapman、1873年6月5日生)、ジョン・アルフレッド・チャップマン (英: John Alfred Chapman、1880年11月21日生) である。

1881年、チャップマン一家はバークシャー州ウィンザーへ転居し、夫は農場管理人の御者の仕事を得た。しかし、末っ子のジョンは障害を持って生まれ、長女のエミリー・ルースは12歳になって間もなく髄膜炎で死亡した。その後、夫婦は大酒飲みになり、1884年に別居した[1]

アニーが死亡するまでに、末っ子のジョンは慈善学校に預けられていたと言われており、娘のアニー・ジョージーナは第三共和政下のフランスをサーカスとともに旅していたという[1]
ホワイトチャペルでの生活

アニー・チャップマンは最終的にホワイトチャペルへ転居した。1886年に網篩 (「篩」は英語で「シーヴ」<英: sieve> と呼ぶ) を作る仕事をしていた男と一緒に暮らしていた。このことから、チャップマンはたいていアニー・"シーヴィ" (英: Sievey) または"シフィ" (英: Siffey) という名前で知られていた[2]。夫との別居後、夫から1週間につき10シリングの手当を受け取っていた。しかし、1886年の終わりに支払いが突然に停止した。その理由を調べたところ、夫がアルコール関係が原因で死亡していたことが判明した。それからすぐに篩作りの男はチャップマンの元を去った。チャップマンの収入が途絶えたのが原因の可能性がある。チャップマンの友人の一人が後に、チャップマンはこの出来事の後にひどく落ち込んで、人生を投げ出したように見えたと証言した。友人たちはチャップマンのことを暗褐色の髪にちなんで「ダーク・アニー」 (英: Dark Annie) と呼んでいた。

1888年までチャップマンはホワイトチャペルにあるコモン・ロッジングハウス(英語版) (生活困窮者向けの安価な共同住宅) で下宿していた。時折、煉瓦工労働者の「恩給生活者」エドワード・スタンリー (英: Edward "the Pensioner" Stanley) と一緒に暮らした。チャップマンはクローシェ編みの仕事や椅子の背覆い作り、花売りで収入を得ていた。収入が足りないときは臨時の売春で補った。ある知人は、チャップマンはしらふならばとても親切で勤勉だが、酔っ払う姿をよく見かけたと語った[3]

殺害される1週間前、スピタルフィールズ(英語版)のドーセット・ストリート35番地にあるクロッシンガム (英: Crossingham) 所有のロッジングハウスに一緒に住んでいるイライザ・クーパー (英: Eliza Cooper) と喧嘩して、痣ができるほど殴られて気分が悪くなった。2人はハリー (英: Harry) と呼ばれる地元の行商人との恋愛を巡るライバルだったと言われている。しかし、イライザは貸した石鹸をチャップマンが返さなかったことを巡って喧嘩したと主張した[4]
最後の数時間と死アニー・チャップマンの死体安置所での写真。身長は152.4センチメートル、目は青く、髪は波打っていて暗褐色だった[5]ハンベリー・ストリート29番地の現在 (2008年撮影)

ロッジングハウスの管理人代理のティム・ドノヴァン (英: Tim Donovan) と夜警のジョン・エヴァンズ (英: John Evans) によると、1888年9月8日午前1時45分頃、チャップマンは下宿代が無かったため、通りでいくらか金を稼ごうとして外出したという[6]。検死審問で目撃者の一人であるエリザベス・ロング (英: Elizabeth Long) 夫人[7]は、午前5時30分頃にスピタルフィールズのハンベリー・ストリート29番地の裏庭のすぐ向こうで、チャップマンが男性と会話していたと証言した。ロングによると、その男性は40歳以上で、チャップマンより少し背が高く、髪が黒く、外国人で、落ちぶれたが体面を繕っているという風な外見をしていたという[8]鹿撃ち帽と黒色の外套を身につけていた[8]。ロングが目撃した女性が本当にチャップマンであれば、ロングは犯人を除けばチャップマンの生きている姿を最後に目撃した人物の可能性が高い。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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