アニメの歴史
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この項目では、主に日本のアニメーションに関する歴史について説明しています。アニメーション全体に関する歴史については「アニメーションの歴史」をご覧ください。
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日本のアニメーションの歴史(にほんのアニメーションのれきし)では、日本におけるアニメーション史について記述する。「アニメーション映画」、「テレビアニメ」の記事も参照のこと。
前史から1940年代
前史「アニメーション映画」も参照哀れなピエロ(動画)愉快な百面相(英語版)(動画)

広義のアニメーションは複数の静止画により動いて見せるものであり、近代以前には以下が存在する。

約3万2000年前の旧石器時代に描かれたショーヴェ洞窟洞窟壁画は世界最古のアニメーションとも呼ばれる。考古学者と画家による研究では、動物は全て通常より多い本数の足・頭・尻尾が描かれており、ちらちらとした炎の明かりで見た場合に動いて見えるという[1]

近代になり1831年にフェナキストスコープ、1834年に回転のぞき絵、1877年にプラキシノスコープが発明された。

映像作品としての初期のアニメーションには以下がある。

1902年ジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。

それ以前には1892年フランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影装置によって上映されていた。他にアメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)監督による『愉快な百面相(英語版)』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1920年代半ばから『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。ファンタスマゴリー

実写部分を含まない世界最初の純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリー』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。ちなみに日本で最初に封切られたアニメーション映画1912年(明治45年)4月に東京市映画館で公開されたエミールの作品『ニッパールの変形』(1911年、原題:Les Exploits de Feu Follet)といわれる[2]。なお世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンキリーノ・クリスティアーニによって製作された。

1914年にはセル画によるアニメーション技術がアール・ハード(英語版)によって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった(『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)、『フェリックスの初恋』(1919年、原題Feline Follies)など)。また、アルゼンチンドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。

アジアでは1941年に中国において万籟鳴(英語版)と万古蟾(英語版)の万氏兄弟(英語版)監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。
日本における前史 鳥獣人物戯画第16紙後半 - 第18紙。このカエルがウサギを投げ飛ばす場面は「現在」の連続であると高畑勲は言う[3][4]信貴山縁起山崎長者の巻「日本の漫画の歴史」も参照

12世紀 - 13世紀平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の日本の絵巻物にアニメーション技術の前史をさかのぼる見方がある。高畑勲によれば、『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などの絵巻物は、永遠や本質や現実に迫る西洋の物語絵画とは対照的に、時間的経過を空間的に表現して「現在」の連続として味わわせるもので、表情の変化、線で書かれた動きなどは漫画やアニメと同じであり、日本のアニメの歴史は絵巻物から語らねばならないと述べている[3][4]

江戸時代の幻灯芝居である写し絵走馬灯草双紙合巻紙芝居影絵、のぞき絵にも、アニメのカット割り、マンガのコマ割りの技術がみられ、中でも写し絵は動画映画の始祖であるとされる[5][3][4]
日本アニメの黎明期なまくら刀(塙凹内名刀之巻)ノンキなトウサン 竜宮参り力と女の世の中桃太郎 海の神兵

日本では1917年(大正6年)に初めてアニメ作品が制作された[6]。当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメ映画の人気を受けてのことで、下川凹天幸内純一北山清太郎の3人の作品が同じ年にそれぞれ別々に公開された[6]

1916年、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会幸内純一が、日活北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている[7][注釈 1]


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