ソビエト連邦及び ロシアの政治家アナトリー・サプチャークАнатолий Александрович Собчак
生年月日1937年8月10日
出生地 ソビエト連邦
ロシア共和国 チタ
没年月日 (2000-02-20) 2000年2月20日(62歳没)
死没地 ロシアサンクトペテルブルク
出身校レニングラード大学法学部
前職弁護士、レニングラード大学法学部講師、助教授、教授
所属政党ソ連共産党、ロシア民主改革運動
称号法学博士
親族クセーニア・サプチャーク
アナトリー・アレクサンドロヴィッチ・サプチャーク(ロシア語: Анато?лий Алекса?ндрович Собча?к,Anatolii Aleksandrovich Sobchak サプチャク、ソプチャク、ソプチャークなどと表記される。1937年8月10日 - 2000年2月20日)は、ソビエト連邦及びロシアの急進改革派の政治家。サンクトペテルブルク市長。法学博士。ロシア連邦大統領のウラジーミル・プーチンとドミートリー・メドヴェージェフは教え子であり、プーチンとメドベージェフの政界進出のきっかけを作った。 1937年8月10日、東シベリアのチタに鉄道技師の家庭に生まれる。1959年レニングラード大学法学部を卒業。スタヴロポリ地方で弁護士として働き、次いで同地方で法律相談事務所の所長を務める。その後レニングラードのソ連内務省民警特別学校、紙パルプ工業技術学校を経て、母校のレニングラード大学法学部に転じ、講師、助教授を経て、経営法講座主任教授となる。プーチンはこの時の教え子である。法律問題で12冊の著書と多数の論文を発表する。1988年ソ連共産党に入党。 1989年3月にソ連人民代議員の候補者に推薦され、経済と司法の改革を主張して当選した。同時に最高会議代議員に選出され、急進改革派の地域間代議員グループのメンバーに名を連ね、アンドレイ・サハロフやガリーナ・スタロヴォイトワとともにヨーロッパ=アジア・ソビエト共和国連邦
来歴・人物
8月クーデターではレニングラードにあって、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領らの国家非常事態委員会を非難し、ミハイル・ゴルバチョフ書記長の復帰を求めた。同時に現地軍幹部に接触し、クーデター側に着かないように説得に成功した。クーデターの失敗を受けて、「レニングラード」から「サンクトペテルブルク」の旧称を復活させた。11月7日行われた十月革命記念日で軍事パレードを廃止し、代わりに「万歳、サンクトペテルブルク」という市民集会を開催した。この催しにサプチャークは、国外に亡命していたロマノフ家家長のウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ大公を招聘して、新生サンクトペテルブルクを再びヨーロッパに向かって開かれた窓にすることを宣言した。サプチャークの葬儀で顔を合わせるプーチンとサプチャークの遺族(2000年)
1994年6月、レニングラード大学の教え子に当たるプーチンを第一副市長に任命する。プーチンは市政でその手腕を発揮し、後にこれがきっかけで中央政界に進出することになる。1996年6月サンクトペテルブルク市長選の決選投票で部下のウラジーミル・ヤコブレフ第一副市長に僅差で敗北した[3]。