アドルフ・リッケンバッカー
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アドルフ・リッケンバッカー(Adolph Rickenbacker、1887年4月1日 ? 1976年3月7日[1])は、スイス生まれのアメリカ合衆国に帰化した楽器製造者、経営者。ギター・メーカーのリッケンバッカーなどを創業した[2]

リッケンバッカーはスイスのバーゼルで、ドイツ系のアドルフ・アダム・リッゲンバッハー(Adolf Adam Riggenbacher)として生まれた[1]

1891年、一家はアメリカ合衆国にスイス・ドイツ系移民として、英語風のリッケンバッカー(Rickenbacher)と改姓し、オハイオ州コロンバスに住むようになった。少年期のアドルフは、母が死に、鉄道事故で両脚を失って酒に溺れた父に養育を放棄され、辛うじて長姉に育てられた。青年期になるとアドルフは自分の名を Adolph と綴るようになった。コロンバスで知り合った同じドイツ系のシャーロッテ・カマラー(Charlotte Kammarer)と結婚して、イリノイ州に移り、1918年カリフォルニア州南部へ移住した[1]

第一次世界大戦において、遠縁のエディ・リッケンバッカー(Eddie Rickenbacker)が米軍最高のエース・パイロットとして名を馳せると、それにあやかってか、あるいは単にドイツ語風のリッゲンバッハー(Riggenbacher)の綴りを避けるために、1930年代から自分の姓の綴りを英語風のリッケンバッカー(Rickenbacker)に改めた(ただし、私的な手紙などでは終生 “Riggenbacher” と署名していた)[1]

1920年代後半、リッケンバッカーは自分の会社(Rickenbacker Manufacturing Company)を創業し、ナショナル・ストリング・インストゥルメンツ・コーポレーションに金属性のギター・ボディを供給し始めた[2]。この結びつきから、リッケンバッカーはジョージ・ビーチャム、ポール・バース(Paul Barth)と知り合い、共同でロー・パット・イン・コーポレーション( the Ro-Pat-In Company)を創設した。彼らは1932年に、最初のアルミニウム鋳造ラップスティール・ギターフライング・パン(Frying Pan)を製造した。その2年度に、社名はエレクトロ・ストリング・インストゥルメント・コーポレーション(the Electro String Instrument Corporation)に改められた。1939年に製造が中止されるまで、累計およそ2,700本のフライング・パンが製造された[3]

リッケンバッカーはギター・メーカーの将来性を確信しておらず、1953年に、南カリフォルニアにおけるエレクトリック・ギター・ブームの先駆者だったフランシス・ケアリ・ホール(Francis Cary Hall)に、事業を売却した[2]

アドルフ・リッケンバッカーは、1976年にカリフォルニア州オレンジ郡で、癌のため、90歳で死去した。
出典・脚注^ a b c d Banz Friedli (2006年7月21日). “ ⇒Father of the Electric Guitar”. Rickenbacker. 2011年6月26日閲覧。
^ a b c “ ⇒The Earliest Days of the Electric Guitar”. Rickenbacker. 2011年6月25日閲覧。


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