アドルフ・ヒトラーの死
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ヒトラーの死を伝える星条旗新聞号外1945年5月2日付)

アドルフ・ヒトラーの死(あどるふひとらーのし)の項目では、1945年4月30日ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー総統地下壕の一室で、夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺を遂げた経緯について記述する。

自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸は赤軍により発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年旧ソ連KGBと後継組織であるロシアFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。
過程

1945年初頭、ドイツは全ての戦線で完全に押し込まれ、敗戦は避けられない状況に陥っていた。東部戦線ではポーランド全土を占領した赤軍が、キュストリーンフランクフルト・アン・デア・オーデルの間を流れるオーデル川を渡って82キロ西方の首都ベルリンを攻略する準備を進めていた[1]。西部戦線では2月、アルデンヌ攻勢を戦っていたドイツ軍が、連合軍に作戦開始地点より内側に押し戻され敗北、フランスのほぼ全土からドイツ軍は駆逐され、連合軍はライン川西岸に達した。

アメリカ軍は3月7日にドイツ軍の反撃を退けてレマーゲン鉄橋を確保、初めてライン川を越えた。イギリス軍とカナダ軍もライン川を越え、ドイツの中心的工業地帯であるルール地方に侵入しつつあった[2]。その南では、ロレーヌ地方を占領したアメリカ軍が、ライン川流域のマインツマンハイムに向かって進撃を続けていた[2]イタリア戦線では、1945年春のアメリカ軍とイギリス連邦軍による攻勢の結果、ドイツ軍は北部に追い詰められた[3]。軍事作戦と並行して、連合国は2月4日 - 11日にかけて首脳会談(ヤルタ会談)を実施し、ヨーロッパにおける戦争終結の形態を議論した[4]総統地下壕の模式図[5]

戦況の悪化を受け、ヒトラーは1945年1月16日から総統地下壕に居を移しており、以降ここから統括を行っていた。ドイツ指導部は、ベルリンの戦いがヨーロッパ戦線における最後の戦いとなることを認識していた[6]。3月中旬、ハンガリーの油田確保の名目で行われた春の目覚め作戦では、赤軍の反撃によりドイツ軍はオーストリアまで潰走し、大規模な反攻作戦はここに全て終わった。アメリカ軍は4月11日までにベルリンの西方100キロに位置するエルベ川を渡った[7]。4月18日にはルール地方のB軍集団の32万5,000人もの将兵が降伏し、捕虜となった。この降伏により、アメリカ軍がベルリンに進撃することが可能となった。

東部戦線では4月16日、赤軍がオーダー川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地を突破するための戦いを開始していた[8]。4月19日までにはドイツ軍がゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅した。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンが初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜までには、ベルリンの郊外に赤軍の戦車部隊が到達した[9]。側近や国防軍首脳部の一部は、ヒトラーに南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、彼はそれを拒否した。

4月22日午後の軍事情勢会議においてヒトラーは、フェリックス・シュタイナーSS大将率いる「シュタイナー軍集団」が、前日にヒトラーから与えられたベルリン救援のための攻撃命令を実行していないと知らされたことで、明らかな神経衰弱に陥った[10]。ヒトラーは感情を抑えられなくなり、ドイツ軍司令官たちの不忠と無能さを怒りに任せて非難し、ついには戦争に敗北したことを初めて認めるに至った。さらに自分はあくまでもベルリンにとどまり、最後には銃で自決すると宣言した[11]

ヒトラーはその後、軍医であったヴェルナー・ハーゼSS中佐に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼは「ピストルと毒」による自殺を提案し、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用を勧めた[12]。ヒトラーが自殺を決めたことを知ったヘルマン・ゲーリング国家元帥は、自身を後継者に指名した1941年の総統布告に基づいて、国家指揮権を自身に移譲するよう求める電報(英語版)をヒトラーに送った[13]。この電報を受けた官房長のマルティン・ボルマンは、ゲーリングがクーデターを企てているとヒトラーに説き、彼もゲーリングの反逆を確信した[14]。ヒトラーはゲーリングに返信し、全官職を辞さない限り処刑されることになると伝えた。同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任したうえで逮捕令を出した[15]

4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した。ベルリンの外でも、4月25日にエルベ河畔のトルガウでアメリカ軍と赤軍が邂逅、東西の戦線が繋がった。4月27日の時点で、ベルリンはドイツのほかの地域から遮断されていた。防衛部隊との間の安定した無線通信も失われており、国防軍最高司令部(OKW)は気球を打ち上げての短波通信に頼らざるを得ず、総統地下壕の司令官は電話回線を用いて指示・命令を下すことを強いられていた。同様に、ニュースや情報の入手は公共のラジオ放送に頼らざるを得ない状況だった[16]。4月28日、ロイター通信発のBBCのニュース報道が地下壕で傍受され、その内容のコピーがヒトラーのもとに届けられた[17]。この報道で、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが、西側連合国に対して独自に降伏を提案したが拒絶されたこと、ならびに彼が自らにドイツの降伏交渉を行う権限があると連合国側にほのめかしていたことが伝えられていた。ヒトラーはこれを自分に対する重大な反逆とみなし、同日の午後には抑えられない怒りと苦々しさから、ヒムラーに対する罵詈雑言を怒鳴り散らした[18]。ヒトラーは直ちにヒムラーの逮捕令を出し、総統大本営における彼の連絡将校であったヘルマン・フェーゲラインSS中将を逮捕・銃殺刑に処した[19]


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