アドルフ・ティエールAdolphe Thiers
生年月日1797年4月16日
出生地 フランス共和国、ブック=ベル=エール
ルイ・アドルフ・ティエール(フランス語: Louis Adolphe Thiers、 1797年4月16日 - 1877年9月3日)は、フランスの政治家・歴史家。首相を2回(在任:1836年2月22日 - 9月6日、1840年3月1日 - 10月29日)務め、フランスの2代大統領(第三共和政の初代大統領、在任:1871年2月17日 - 1873年5月24日)を務めた。姓がチエールと表記されることもある[1]。
生涯(英語版)で生まれた。父は錠前屋で母はシェニェ家(Cheniers)出身だった[2]。マルセイユのリセに通った後、エクスの法学部を卒業、23歳で弁護士免許を取得した[2]。しかし、ティエールは法学への興味が薄く、代わりに文学に興味を持ち、ヴォーヴナルグ侯爵に関する論説を書いてエクスで賞金を得た[2]。1821年秋にパリに出てすぐ『ル・コンスティテュショネル(英語版)』に寄稿するようになり、自由主義者として名が知れ渡るとともに『フランス革命史』(1823年 ? 1827年、10巻)を著わして、一躍国民から名声を得た[2]。
この時点では生涯を通して文人の道を歩むと思われたが、1829年8月にジュール・ド・ポリニャックが首相に就任したことで情勢が変わり、1830年初にはアルマン・カレル(英語版)、フランソワ・ミニェ(英語版)らとともに『ル・ナショナル(英語版)』紙を創刊して政府批判をはじめ、ジョージ・セインツベリー(英語版)がブリタニカ百科事典第11版でティエールを実質的な革命の中心人物の1人(one of the souls of the actual revolution)と評するほどの活躍をした[2]。
七月王政期では国王ルイ・フィリップ1世を支持する急進派の一員として活躍、エクスから代議院議員に選出されたのち財務省の官僚を務め、1832年の六月暴動の後は内務大臣に任命された[2]。1836年には首相も務めており、同年に辞任した時点では外務大臣を兼任していた[2]。一方でフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーや第3代ブロイ公爵ヴィクトル・ド・ブロイとは敵対した[2]。また、1834年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出された[2]。
辞任後はイタリアを旅したのち1838年に野党活動を開始、1840年3月には首相兼外務大臣を再任したが、反イギリス・反オスマン帝国政策についてルイ・フィリップ1世の説得に失敗したことで同年10月29日に辞任、『執政政府と第一帝政の歴史』の執筆に専念して1845年に第1巻を出版した[2]。この頃でも代議院議員に留任していたが、演説はほとんどしなかったという[2]。
1848年に二月革命が勃発すると、オディロン・バロ(英語版)とともにルイ・フィリップ1世に呼び出されたが、事態の収拾に失敗して辞任を余儀なくされた[2]。
第二共和政では保守共和派の一員になり、以降死去まで立場を変えなかったが、大統領選挙でルイ=ナポレオン・ボナパルトに票を投じたことは後に批判の的となった[2]。ティエールが第二共和政期に官職に就くことはなく、1851年12月2日のクーデターでは逮捕され、マザ牢獄(英語版)に投獄されたのちフランスから追放された[2]。翌年夏に帰国を許されたが、しばらくは『執政政府と第一帝政の歴史』の執筆に専念、再び政治に関わったのは1863年にパリから立法院議員に選出されたときだった[2]。立法院では帝政反対派がごく少数だったが、ティエールは積極的に演説して帝政の外交政策を批判、またフランスの威信が低下していると主張して、普仏戦争における開戦世論の形成に一役買った[2]。
国防政府(英語版)でははじめ官職につかなかったが、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクとの休戦協定(英語版)交渉に関わった[2]。休戦協定締結後に実施された1871年フランス議会選挙(英語版)では、20以上の選挙区で当選[注釈 1]、パリの代表として議員を務めた[2]。直後に国民議会より行政長官(chef du pouvoir executif、実質的には大統領)に選出されると、ティエールは連立内閣の組閣を命じ、続いてドイツとの講和交渉に臨んだ[2]。このとき、アルザス・ロレーヌの2州をドイツに割譲することとなったが、ティエールは議会に講和の必要性を説き、講和案は4倍以上の票差で可決された[2]。