アドルフ・ガーランド
Adolf Galland
1940年頃のカラー処理された肖像
生誕1912年3月19日
ドイツ帝国
プロイセン王国
ヴェストファーレン州
アドルフ・ヨーゼフ・フェルディナント・ガーランド(Adolf Josef Ferdinand Galland 、1912年3月19日 - 1996年2月9日)[注釈 1]は、ドイツの空軍軍人。最終階級は空軍中将[1]。戦闘機パイロット、戦闘機隊総監を務め、第44戦闘団司令官として終戦を迎えた[2][3][4]。出撃回数705回、撃墜機数104機のエース・パイロットである[5]。 1912年3月19日、ヴェストファーレンのヴェステルホルトにラインラント人として生まれた[6]。先祖は1742年にフランスからドイツに移民したユグノーである[7]。四人兄弟の次男であった[8]。幼少から空に対して強い憧れを抱いていたガーランドは、17歳でグライダーを飛ばしていた[9][注釈 2]。
生涯
ドイツ空軍入隊
1935年、アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約の破棄及び再軍備を宣言し、ヴァイマル共和国軍はドイツ国防軍に改組された。また国防軍の一軍種たるドイツ空軍も公式に設置され、ガーランドは第2戦闘航空団リヒトホーフェンに配属された[17]。同年10月、訓練中にガーランドは墜落事故を起こして負傷する。顔面を計器板にめり込ませ鼻が砕けて歪み、ガーランドの旧友も顔がわからないほど顔が変わってしまい、片方の目の視力も大きく落ちた[18]。医者は操縦不適と判断したが、ドイツ空軍にとって貴重なパイロットであり、ガーランドの強い要望もあって飛行を続けることが許された[19]。ガーランドによれば視力表を全て覚えて凌いだという[20]。 1936年、スペイン内戦が勃発[21]。ドイツはフランコ政権を支援してコンドル軍団なる義勇軍を送り込んだ[22]。スペイン内戦の間、ガーランドはコンドル軍団第88戦闘飛行隊
スペイン内戦からフランス侵攻
ポーランド侵攻時、第2地上攻撃教導航空団第2中隊長の任に就き、ヘンシェルHs123を乗機として50回以上の戦闘任務をこなした[29]。2級鉄十字章を授与された[30]。1939年10月1日、大尉に昇進[30]。
1940年、ガーランドの希望が聞き届けられ、第27戦闘航空団(JG27)の戦闘機パイロットとして転属された[30][31]。