アドルフ・オックス
Adolph Ochs
生誕Adolph Simon Ochs
(1858-03-12) 1858年3月12日
アメリカ合衆国 オハイオ州シンシナティ
死没1935年4月8日(1935-04-08)(77歳)
アメリカ合衆国 テネシー州チャタヌーガ
墓地ニューヨーク州ヘイスティングス=オン=ハドソン
アドルフ・サイモン・オックス(Adolph Simon Ochs、1858年3月12日 - 1935年4月8日)は、アメリカ合衆国の新聞発行人であり、『ニューヨーク・タイムズ』紙などのオーナーである。 オックスはオハイオ州シンシナティのドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれた。両親ともにドイツからの移民だった。父のユリウス(Julius)はバイエルンの出身で、1846年に渡米した[1]。ユリウスは高度な教育を受け、6つの言語に堪能であり、南部各地の学校で教師をしていた。南北戦争中は北軍を支持していた[2]。母のベルタ(Bertha、旧姓レビ(Levy))はプファルツ地方の出身で、1848年革命の際に難民として渡米した。1853年にユリウスと結婚するまではアメリカ南部に住んでおり、南北戦争では南部に同情的だった。しかし、考え方の違いはあっても2人が離婚することはなかった[3]。 南北戦争終結後、一家はテネシー州ノックスビルに引っ越した[3]。ノックスビルでアドルフは公立学校に通い、空いた時間には新聞配達をした[1]。11歳のとき、『ノックスビル・クロニクル』紙の編集者ウィリアム・ルール
若年期と初期のキャリア
父親はノックスビルの小さなユダヤ人コミュニティの宗教指導者であり、その収入を補うためにオックスの兄弟たちも同じ新聞社で働いていた。『ノックスビル・クロニクル』紙はノックスビルで唯一の共和党支持・リコンストラクション支持の新聞だったが、オックスは、南軍の積極的な支持者であった詩人のエイブラム・ジョセフ・ライアン(英語版)神父を同社の顧客にしていた[5]。
オックスは19歳の時、家族から借りた250ドルで『チャタヌーガ・タイムズ(英語版)』の支配権を買収し、その発行人になった。翌年、オックスは『トレーズマン』(The Tradesman)というビジネス紙を創刊した。また、南部アソシエイテッド・プレスの共同創設者の一人となり、その社長を務めた。 1896年、38歳の時、『ニューヨーク・タイムズ』の記者ヘンリー・アロウェイ
ニューヨーク・タイムズ
1904年、オックスはカー・ヴァン・アンダ(英語版)を編集主幹(managing editor)として雇った。当時の新聞が公然と党派性の高い記事を掲載していた中で、『ニューヨーク・タイムズ』は客観的なジャーナリズム(英語版)を重視する姿勢を示し、また、価格を3セントから1セントに下げたことで、ほぼ忘れ去られていた新聞から脱却した。『ニューヨーク・タイムズ』の読者数は、買収時の9,000人から1920年代には78万人にまで増加した。『ニューヨーク・タイムズ』が1面に掲げているモットーであるAll the News That's Fit to Print(印刷に値するニュースは全て掲載する)を考案したのもオックスである[2]。
1904年、オックスはニューヨーク・タイムズの本社をマンハッタンのロングエーカー・スクエアに新しく建設されたビル(現在のワン・タイムズスクエア)に移転した。同年、この広場の名称はタイムズスクエアに変更された。同年の年越しのときに、オックスはビルをライトアップするために花火を打ち上げさせ、毎年の恒例となった[7][9][10]。1921年8月18日、組織改編から25年を迎えた『ニューヨーク・タイムズ』のスタッフは1,885名だった。独立した民主党系の出版物として分類されていたが、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの大統領選挙運動には一貫して反対していた。ニュースの公平性、編集の節度、充実した海外報道などにより、アメリカのジャーナリズムの中で高い地位を確保し、全米で広く読まれ、影響力を持つようになった[1]。
1901年、オックスはフィラデルフィアの『タイムズ』紙の経営者兼編集者となり、後に同州の『パブリック・レジャー』(Public Ledger)紙と合併した。1912年にサイラス・H・K・カーティス(英語版)に売却した[1]。
ヴォルフガング・ディッシュ[注釈 1]によると、「広告に費やされたお金の50%以上が浪費されており、印刷のインクの無駄遣いであると私は断言する」[注釈 2]というオックスの最も有名な言葉は、1916年になされたものである。これは、ジョン・ワナメイカーのものとされる、マーケティングに関する言葉である「広告費の半分が金の無駄遣いに終わっている事はわかっているが、どっちの半分が無駄なのかが分からない」[注釈 3]に由来するものと見られている[12]。 1928年、オックスは両親を偲んでチャタヌーガにシナゴーグ・ミズパ・コングレゲーション
宗教的活動