アドルフ・アイヒマン
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アドルフ・アイヒマン
Adolf Eichmann
1942年
生誕1906年3月19日
ドイツ帝国 プロイセン王国ゾーリンゲン
死没 (1962-06-01) 1962年6月1日(56歳没)
イスラエル ラムラ
死因刑死(絞首刑)
職業 ナチス親衛隊国家保安本部第IV局B部4課課長(ゲシュタポ局宗派部ユダヤ人課課長)
肩書き 親衛隊中佐
任期1939年12月21日-1945年5月
政党 国家社会主義ドイツ労働者党
配偶者ヴェロニカ・アイヒマン(旧姓リーベル)
署名

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オットー・アドルフ・アイヒマン(ドイツ語: Otto Adolf Eichmann[1]1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツ親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐

ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 (収容所所長はルドルフ・フェルディナント・ヘス (=ルドルフ・へース)) へのユダヤ人大量移送に関わった[2]。「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ホロコースト) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。

第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にモサドによって拘束され、イスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下され、翌年6月1日未明に絞首刑に処された。
来歴
生い立ち

アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンで産まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン (Adolf Karl Eichmann) 。母はオーストリア系[3] マリア・アイヒマン (Maria Eichmann) [1]。アドルフは5人兄弟の長男で[4][5]、長男アドルフから順に次男エミール (Emil) 、三男ヘルムート (Helmuth) 、長女イルムガルト (Irmgard) 、四男オットー (Otto) であった[1][6]。このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した[6]

父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。信仰はプロテスタントだった。アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている[1]。1913年にアドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー帝国リンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している[7][4][8]。母マリアの旧姓はシェファーリング (Schefferling) と言い、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳で死去した。アドルフは立て続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル (Maria Zawrzel) という人物と再婚している。彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。父アドルフ・カールとは教会で知り合った。アドルフはこの継母について「熱心で非常に良心的だった」と語っている[6][8]

オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った[9] (当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた) 。アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった[5]。なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。

父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。しかしこの会社はすぐに行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった[10]。アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している[5]
社会人として

その後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。さらに1928年からはスタンダード石油のウィーン現地子会社にあたるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている[4][10]。この会社に5年半ほど務めたが、大恐慌の後の経済不況を受けて1933年には人員削減の対象として解雇されている。アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それが災いして人員整理された」と語っている[4][11]
ナチス親衛隊

アドルフは石油会社に勤めていた頃の1932年4月1日にオーストリア・ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)[12]。アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士の薦めであったという[12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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