アドルフォ・バロンチェーリ
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アドルフォ・バロンチェーリ


名前
ラテン文字Adolfo Baloncieri
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1897-07-27) 1897年7月27日
出身地アレッサンドリア
没年月日 (1986-07-23) 1986年7月23日(88歳没)
選手情報
ポジションMFFW
ユース
アレッサンドリア
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1919-1925 アレッサンドリア 120 (74)
1925-1932 トリノ 192 (97)
1932-1933 コメンセ 3 (0)
1943-1944 アレッサンドリア 1 (0)
代表歴
1920-1930 イタリア47 (25)
監督歴
1931-1932 トリノ (アシスタント)
1932-1934 コメンセ
1934-1936 ミラン
1936-1937 ノヴァーラ
1937-1939 リグーリア
1939-1940 ナポリ
1940-1942 リグーリア
1942-1945 アレッサンドリア
1945-1946 ミラン
1946-1947 キアッソ(英語版)
1947-1950 サンプドリア
1950 ローマ
1951-1952 キアッソ(英語版)
1954 パレルモ
1958 サンプドリア
1961-1962 キアッソ(英語版)

獲得メダル

サッカー
オリンピック
1928 アムステルダム男子


1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アドルフォ・バロンチェーリ(Adolfo Baloncieri, 1897年7月27日 - 1986年7月23日)は、イタリア王国アレッサンドリア出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元イタリア代表。ポジションはミッドフィールダーフォワード
経歴
クラブ

1897年、イタリアアレッサンドリアの小村カステルチェリオーロに生まれた。幼少期の12年間をアルゼンチンロサリオで過ごし、そこでサッカーを覚えた。1913年にイタリアに戻りアレッサンドリアに加入をすると、第一次世界大戦に銃兵として従軍した期間を挟んで1925年まで在籍した[1]。続いて7万リラの移籍金で加入したトリノではフリオ・リボナッティ(英語版)、ジーノ・ロッセッティ(英語版)と共に「驚異の三人組(Il trio delle meraviglie)」と呼ばれる前線を形成し、1926-27シーズンと翌1927-28シーズンのリーグタイトルを獲得した(前者のトリノの優勝はのちにアッレマンディ事件(イタリア語版)で取り消しとなった)[2][3]
代表

イタリア代表として1920年アントワープ大会1924年パリ大会1928年アムステルダム大会と三度のオリンピックに参戦。キャプテンとして臨んだ1928年大会では銅メダルを獲得した[1]。代表では通算で47試合に出場し25得点を挙げたが、これはアレッサンドロ・アルトベッリフィリッポ・インザーギと並ぶ歴代6位タイの得点記録となっている。
タイトル
選手
トリノ


ディヴィジオーネ・ナツィオナーレ:1927-28(英語版)

イタリア代表


中央ヨーロッパ・インターナショナル・カップ(英語版):1927-30(英語版)

オリンピック銅メダル:1928

監督
リグーリア


セリエB:1940-41

キアッソ


ナショナル・リーグB:1961-62

脚注[脚注の使い方]^ a b “ADOLFO BALONCIERI Biography” (英語). Olympics.com. 2023年1月5日閲覧。
^ “BALONCIERI, Adolfo in Encicropedia dello Sport"” (イタリア語). treccani.it. 2023年1月5日閲覧。
^ “1927-1928: il primo scudetto” (イタリア語). Torino FC. 2023年1月5日閲覧。

外部リンク

アドルフォ・バロンチェーリ
- Soccerwayによる個人成績

transfermarkt

 監督歴










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