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テオドール・アドルノ
基本情報
生誕 (1903-09-11) 1903年9月11日
出身地 ドイツ帝国
プロイセン王国
フランクフルト・アム・マイン
死没 (1969-06-06) 1969年6月6日(65歳没)
スイス
ヴァリス州
フィスプ(英語版)
ジャンルクラシック音楽
職業哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家
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テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund [?te?odo??? ?a?d???no] ( 音声ファイル)、1903年9月11日 - 1969年8月6日)は、ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。
活動1964年4月、マックス・ホルクハイマー(左)と共に
マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール (心理学)(英語版))の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。その一方アドルノがナチス機関誌に発表した批評がナチスへの協力だとして問題視されている[1]。
作曲家としても作品を残し、アルバン・ベルクに師事した。アルノルト・シェーンベルクをはじめとした新ウィーン楽派を賞賛する一方、イーゴリ・ストラヴィンスキーやパウル・ヒンデミットなどの新古典主義的傾向をもつ音楽や、ジャン・シベリウス、リヒャルト・シュトラウス、ヨーゼフ・マルクスといった、20世紀において後期ロマン主義のスタイルをとり続ける作曲家には否定的であった。また、一貫してジャズやポピュラー音楽には批判的な態度をとりつづけた。なお、トータル・セリエリズムの最初期の作品であるカレル・フイヴェールツの「二台のピアノのためのソナタ」については「曲の形がはっきりしない」と評した。[2][注 1]
経歴フランクフルト市内にあるアドルノのモニュメント。仕事場であった書斎をモチーフにしている
ヘッセン州フランクフルト・アム・マインでワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルント(Oscar Alexander Wiesengrund)と、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノ(Maria Barbara Calvelli-Adorno)の間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。
アドルノは学業成績も極めて優秀であり、ギムナジウムを2年飛び級で卒業した上にアビトゥーアに首席で合格した。フランクフルト大学に入学して哲学・音楽・心理学・社会学を学んだ。
アドルノは大学時代から音楽批評を多く発表していたが、目指していたのは作曲家であった。1924年に大学を卒業すると、本格的に作曲を学ぶためアルバン・ベルクを頼ってウィーンへ移るが、肩入れしていたシェーンベルクらの音楽が世間で不評であったことに落胆し、再び音楽批評の活動に戻った後、1926年にウィーンを去った。
その後フランクフルトに戻り、次いでベルリンに滞在するが、ナチスの勢力伸長に伴い、ユダヤ系の出自であるアドルノは1934年にイギリスへ、さらに1938年にアメリカに渡る。この頃から「テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)」という名前表記を用いるようになった。
第二次世界大戦後の1949年、フランクフルト大学の社会研究所 (Institut fur Sozialforschung) が再スタートを切った際に帰国、ホルクハイマーと共にこの研究所の所長に就任し、亡くなるまでここに籍を置いた。ヨアヒム・カイザーやハインツ=クラウス・メツガーは彼の教え子に当たる。夏のダルムシュタット夏季現代音楽講習会ではシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノらのセリエル音楽の理論的指導者として大きな教育的功績を与え続けた。