アドリエンヌ・モニエ
Adrienne Monnier
生誕 (1892-04-26) 1892年4月26日
フランス、パリ3区
死没 (1955-06-19) 1955年6月19日(63歳没)
フランス、パリ
職業書店・出版社経営者、雑誌主宰者、文筆家
活動期間1915年 - 1951年
著名な実績「本の友の家」書店経営
文芸誌『ル・ナヴィール・ダルジャン
アドリエンヌ・モニエ(Adrienne Monnier、1892年4月26日 - 1955年6月19日)は、フランスの書店・出版社経営者、雑誌主宰者、文筆家。1915年にパリ6区オデオン通り(フランス語版)7番地に書店「本の友の家」を開店し、戦間期の文学運動の拠点の一つとして文化史に名を残した。シルヴィア・ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店の設立に協力し、自ら創刊した文芸誌『ル・ナヴィール・ダルジャン(英語版)(銀の船)』に「失われた世代」の作家の作品を掲載するなど、フランスにおける主に英米の作家の紹介に尽力した。また、文筆家としても『新フランス評論』誌、『メルキュール・ド・フランス』誌など主要な雑誌に寄稿し、詩や随筆・評論、回想録を著した。
生涯
背景(フランス語版)(1894-1976)は刺繍職人・挿絵作家である[2]。父は郵便局員で、出張で不在がちであったが、サヴォワ県レ・デゼール(フランス語版)出身で教養豊かな母フィリベルトは特に当時の象徴主義の詩や演劇に関心が深く、アドリエンヌとマリーをモーリス・メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』やベル・エポックを代表する女優サラ・ベルナールが出演する演劇に連れて行った[3][4]。
1909年9月に学生時代から親しくしていた友人シュザンヌ・ボニエールが渡英したのを機に、ロンドンに6か月滞在し、主に英語を学んだ[5]。帰国後、タイプや速記の資格を取得し、1912年に文筆家イヴォンヌ・サルセー(フランス語版)に秘書として雇われた。イヴォンヌ・サルセーは文芸評論家・劇評家フランシスク・サルセー(フランス語版)(1827-1899)の娘で、父と同業のアドルフ・ブリッソン(フランス語版)と結婚した後、アドルフの父ジュール・ブリッソン(フランス語版)が創刊した『政治・文学年報(Les Annales politiques et litteraires)』の編纂に携わっていた。モニエはこの編纂の手伝いをするだけでなく、講演会の企画なども担当した[1][5]。だが一方で、こうした活動を通じて、もっと新しい文学を紹介するために自分で雑誌を編纂し、書店や出版社を作りたいと思うようになった。1913年、突然の不幸と転機が同時に訪れた。父が列車の事故に遭って重傷を負い、受け取った補償金をすべて娘に譲ったのである。娘が書店を開く夢を抱いていることを知っていたからであった[5]。 第一次世界大戦中の1915年11月15日、23歳のときにパリ6区オデオン通り7番地に書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」を開店した。彼女は1951年に閉店するまで36年にわたってこの書店を経営し、戦間期の1920年代から30年代にかけて多くの文学者が集まった場所、とりわけ、当時次々と起こった前衛文学運動の拠点の一つとして文化史に名を残すことになった[3]。「本の友の家」は当初、書籍を販売する書店というより、むしろ貸し出しを中心とする図書館の役割を担っていた。本を借りるためにはまず「本の友の家」の会員になる必要があった。
本の友の家