アドミラル・グラーフ・シュペー
1936年に撮影されたアドミラル・グラーフ・シュペー
基本情報
建造所ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠
アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) は、ドイツ海軍が第二次世界大戦で運用した軍艦。 アドミラル・グラーフ・シュペーは、ドイッチュラント級装甲艦の3番艦。第一次世界大戦の敗北によって軍備を制限されたドイツ海軍が、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項の範囲内(排水量1万トン以下)に収めながらも強力な軍艦として建造した艦である[1]。就役は1936年。英海軍はこれらの軍艦を、小粒であるが強力であると認め、ポケット戦艦とあだ名した[1]。本艦は第二次世界大戦初期の大西洋?インド洋における通商破壊作戦で活躍したが、1939年(昭和14年)12月13日のラプラタ沖海戦でイギリス巡洋艦3隻と交戦して損傷[2]。ウルグアイのモンテビデオ港に追いつめられ、12月17日に自沈した[2]。 艦名はマクシミリアン・フォン・シュペーにちなんでいる。彼は第一次世界大戦において、青島を根拠地としたドイツ東洋艦隊司令官であった。他にグラーフ・シュペーと呼ばれる船として、第一次世界大戦において未完成に終わったマッケンゼン級巡洋戦艦の4番艦がある。 なお、ドイツ語の発音に従えば本来はアトミラール・グラーフ・シュペーと表記すべきだが、日本では英語読みの「アドミラル」で呼ばれるのが一般的である[3][4]。 1932年10月1日ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠にて起工。1934年6月30日進水式を行った。艦名は、そのもととなったマクシミリアン・フォン・シュペーの孫娘により命名された。1936年1月6日に就役し、数ヶ月に及ぶ完熟訓練を大西洋で行った。翌年の1937年5月20日にジョージ6世戴冠記念観艦式に参加し、日本の妙高型重巡洋艦「足柄」やフランス海軍のダンケルク級戦艦「ダンケルク」らと共に各国海軍の注目を集めた。 1939年8月21日に「アドミラル・グラーフ・シュペー」はヴィルヘルムスハーフェンより出航し、アイスランドの南を通過して大西洋に進出[5]。9月1日に給油艦「アルトマルク」と会合し、補給を受けた[6]。9月3日、イギリスの通信傍受により、イギリスの対ドイツ宣戦布告を知る[7]。続いてドイツから戦争状態に入ったことを知らせる通信が届き、その後にはフランスもドイツの宣戦したこととフランス商船に対する攻撃禁止を伝える通信も届いた[8]。「アドミラル・グラーフ・シュペー」は「アルトマルク」とともにフリータウン西方約500浬の攻撃区域へと向かった[8]。しかし、通商破壊戦を中止して作戦海域を離れろとの命令を受けて南大西洋のアセンション島・セントヘレナ間の西方へと向かった[9]。9月8日に赤道を通過し、9月10日に目的海域の北端に着いた[10]。9月11日、給油に先立って「アドミラル・グラーフ・シュペー」が搭載機を飛ばしたところイギリス巡洋艦と思われる船を発見[11]。それはイギリス重巡洋艦「カンバーランド」であったが、この発見により接触は避けられた[12]。この出来事の後、補給作業が開始されたが、その最中に水平線上にマストが、続いて煙突も視認され、退避行動がとられた[13]。しかし、これに該当する船は確認できない[14]。「アドミラル・グラーフ・シュペー」と「ドイッチュラント」の航跡 9月25日、積極的な通商破壊戦に移れとの命令が届いた[15]。「アドミラル・グラーフ・シュペー」艦長ラングスドルフはブラジル沖で作戦を行うことに決め、9月27日に「アルトマルク」と別れてそちらへ向かった[16]。敵を混乱させることを狙ってラングスドルフは「アドミラル・シェーア」の振りをすることにし、艦名の書かれた箇所が「アドミラル・シェーア」と書き換えられた[17]。
概要
艦名
艦歴英仏海峡へ向かうアドミラル・グラーフ・シュペー、1939年4月近代化改装後のアドミラル・グラーフ・シュペー