アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦
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アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦
手前から「アドミラル・ウシャコフ」、「アドミラル・セニャーヴィン」、「ゲネラル=アドミラル・アプラクシン」(1905年3月11日、ポートサイド
基本情報
艦種 海防戦艦
海防艦
命名基準帝政ロシアの海軍軍人
日本海の島名
運用者 ロシア帝国海軍
 大日本帝国海軍
建造期間1893年 - 1899年
就役期間1895年 - 1935年
計画数4
建造数3
前級ガングート級
要目
排水量4,971 トン
全長87.32 m
水線長99 m
最大幅15.82 m
吃水7 m
機関方式石炭専焼缶×4基[注釈 1]
三段式膨張式レシプロ機関×2基
推進器スクリュープロペラ×2軸
出力5,750 shp
最大速力16 ノット
航続距離2,600 海里 / 10 ノット
燃料石炭:450 t
乗員404名
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254mm連装砲(ロシア語版)×2基

120mm単装砲(英語版)×4基

47mm単装速射砲×6基

37mm単装速射砲×16基

38.1cm単装水上魚雷発射管×4基

装甲

装甲帯:102 - 254mm

砲塔:203mm

司令塔:203mm

甲板:51 - 76mm

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アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦(アドミラル・ウシャコフきゅうかいぼうせんかん;ロシア語:Броненосцы береговой обороны типа ≪АдмирапBУшаков≫ブラニノースツィ・ビリガヴォーイ・オボローヌィ・チーパ・アドミラール・ウシコーフ)は、ロシア帝国海軍海防戦艦(沿岸防備装甲艦;Броненосец береговой обороны)である。

ガングート」に代わる艦として1890年造艦計画のもとで発注され、1893年から1899年にかけて「アドミラル・ウシャコフ」「アドミラル・セニャーヴィン」「ゲネラル=アドミラル・アプラクシン」の3隻が建造された。より大型の4番艦「アドミラル・ブタコフ」の建造も計画されたが、1900年に取り消された。

完成した3隻はすべてバルチック艦隊に配属され、日露戦争中に編成された第3太平洋艦隊の所属艦として日本海海戦に参加。「ウシャコフ」は撃沈され、「セニャーヴィン」「アプラクシン」は日本側に鹵獲され、それぞれ「見島」「沖島」と改名され1930年代まで使用された。
計画

ロシア帝国における海防戦艦開発計画は、1889年8月に海軍大臣ニコライ・チハチェフ(ロシア語版)中将の指示で始まった。開発にあたってはギリシャのイドラ級海防戦艦を基礎とし、バルト海での運用を前提にドイツ帝国のジークフリート級海防戦艦(英語版、ドイツ語版)やスウェーデンのスヴェア級海防戦艦に対抗できる性能が求められた[1]

1989年9月初旬、海軍省技術委員会はエラスト・グリヤエフ(ロシア語版)が主任となって設計した2つの案を提示した。設計案では排水量4,000トン、2つの砲塔に4基の35口径229mm砲を備え、厚さ229mmの装甲帯を持ち、最大速力15ノットで航行可能なものだった。計画案は海軍上層部による検討の結果、更なる高性能艦の開発が求められた[2]

10月、技術委員会は新たに4つの設計案を提示し、その中には305mm主砲と装甲帯厚305mmの案が含まれていた。1890年5月1日、グリヤエフは「バルト海用4,200トン級戦艦への搭載装備品に関する予備設計案」を提出。この計画案では2本の装甲帯とバーベットの導入が提案された[3]

この後、技術委員会では同時期に行われていた外洋型戦艦の設計作業が優先されたため、海防戦艦の開発研究は数カ月間中断され、翌年の春から再開された。新たな設計案では2つの砲塔に229mm砲を4基、上部構造物に120mm砲を4基搭載し、装甲帯は1本に削減された。1891年6月9日、計画案は委員会での検討にかけられ、装甲をさらに減らして最大速力を16ノットに上げることを条件に海相チハチェフの承認を得た。6月13日には海軍元帥アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版)大公も計画を承認し、大公は120mm砲を152mm砲(英語版)に交換することを命じた。7月には同型艦を2隻建造することが決定され、構造図の作成と1/48の検討模型の作成が開始された。10月14日、計画は委員会で正式に承認され、10月20日にアレクセイ大公が修正された計画案(152mm砲の弾薬を搭載する分、機雷の搭載が見送られた)を承認し、造船業者を選定するため計画書を海軍省造艦供給本部に転送するように命じた[4]

1891年11月、技術委員会は主機関の納入業者を選定する入札を行うことを発表し、翌年3月と5月に行われた入札の結果、イギリスのモーズレイ・サンズ&フィールド(英語版)とハンフリーズ・テナント&ダイクス(英語版)の2社が落札した[5]

1892年5月26日、砲兵部と造船部との合同会議で技術委員会は229mm砲を、より高性能の45口径254mm砲に置き換える案を提示した[6]。チハチェフも39.3tの積載量の増加は許容できると判断して、この提案を承認した。バーベットに変えて閉鎖砲塔を採用したことと、より重い225.5kgの砲弾を積むことで排水量が200トン増加したので、1893年3月16日に技術委員会は装甲帯の厚さを10%削減し、それを補うため従来の鋼鉄製装甲より強固なハーヴェイ鋼(英語版)の採用を提案した。この提案をチハチェフは拒絶したが、彼が152mm砲を120mm砲に置き換えた(37.5tの軽量化)場合を検討せよとの指示は委員会に受け入れられた[7]
建造

1番艦と2番艦の建造命令は1892年初めに発令され、6月にバルチック造船所で1番艦が、7月に新アドミラルティ造船所で2番艦が着工した。8月24日、皇帝アレクサンドル3世は海軍省から提案された5つの候補[注釈 2]の中から、ロシア海軍史に残る名将フョードル・ウシャコフとドミトリー・セニャーヴィン(英語版)に因んで1番艦を「アドミラル・ウシャコフ」、2番艦を「アドミラル・セニャーヴィン」と命名すると決裁した[8]

「ウシャコフ」の起工式は装甲巡洋艦リューリク」の進水式に共にアレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナ夫妻の臨席の下、1892年10月22日にバルチック造船所で挙行された。翌1893年の初めまでに艦底部分の組み立てとフレームの組付けが完了した。5月に艦底部の気密テストが開始され[9]、7月30日に予定から大幅に遅れてイジョルスキエ社に舷側部と上甲板の装甲板が発注された。蒸気機関は8月までにイギリスでの組み立てが終了し、10月に分解されてロシアに送られた[10]

「ウシャコフ」の進水式は1893年10月27日に皇帝夫妻と海相チハチェフら海軍省高官、外国からの招待客を含む多くの来賓の臨席の下で行われた。その後、1894年4月までに上部構造や発電設備の組み立てが完了し、6月28日と7月1日に水上公試が行われた[11]


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