アトランタ
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アタランタ」とは異なります。

この項目では、アメリカ合衆国ジョージア州の都市について説明しています。その他の用法については「アトランタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

アトランタ市
City of Atlanta


市旗市章

位置

右: ジョージア州におけるフルトン郡の位置
左: フルトン郡におけるアトランタの位置

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度45分18秒 西経84度23分24秒 / 北緯33.75500度 西経84.39000度 / 33.75500; -84.39000
歴史
市制施行1847年12月29日
行政
アメリカ合衆国
 州 ジョージア州
 郡フルトン郡
ディカーブ郡
 市アトランタ市
市長アンドレ・ディケンズ(英語版)(民主党
地理
面積 
  市域343.0 km2 (132.4 mi2)
    陸上  341.2 km2 (131.8 mi2)
    水面  1.8 km2 (0.7 mi2)
  都市圏22,601.8 km2 (8,726 mi2)
標高225-320 m (738-1,050 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域498,715人
    人口密度  1,461.7人/km2(3,783.9人/mi2)
  都市圏6,089,815人
  備考全米都市人口第38位
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : https://www.atlantaga.gov/

アトランタ(英語:Atlanta、英語発音: [at?lant?] ( 音声ファイル)、現地発音: [at?lan?] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国ジョージア州北西部に位置する都市。同州の州都である。市域の大部分はアトランタに郡庁を置くフルトン郡郡庁所在地内にあり、一部東隣のディカーブ郡にかかっている。市域人口は498,715人(2020年国勢調査[1]で同州最大、全米では第38位である。フルトン郡を中心に29郡にまたがる都市圏は人口6,089,815人(2020年国勢調査)[2]を数え、全米第9位の規模である。この都市圏にアセンズゲインズビルロームなどをあわせた広域都市圏は6,930,423人(2020年国勢調査)[2]の人口を抱え、全米第10位である。
概要

古くは鉄道交通のハブとして、また綿花産業の中心地として栄えた。やがてコカ・コーラデルタ航空CNNなど多数の大企業が本社を置くようになり、ジョージア州のみならずアメリカ南部の商業・経済の中心地としての役割を担うようになった。1990年代に入るとアトランタはアメリカ南部にとどまらず、国際的にも影響力を持つまでになり、先進国の都市の中では最も高い成長を遂げている都市の1つに数えられるようになった[3]。経済面での国際的な影響力に加え、「世界で最も忙しい空港」と呼ばれるハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港[4] を擁し、1996年の夏季オリンピック開催地としても世界的な知名度を有するアトランタは、2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第36位の都市と評価された[5]

アトランタは南部特有の夏の蒸し暑さと冬の温暖さから、「ホットランタ」(Hotlanta) という異名をつけられている。アトランタの南、メーコンを拠点として活動しているバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドは、1971年にこの異名を取った「ホットランタ」(Hot 'Lanta) という楽曲を発表した。アトランタの住民は「アトランタンズ」(Atlantans) と呼ばれている。
歴史
市の創設と初期1815年頃のインディアン・トレイルが示されたアトランタ周辺の地図(ただしフルトン郡境とアトランタ市境は19世紀後半のもの)

現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年チェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーターという名の入植地が建設された。その後間も無く非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービルと名付けられた。

1836年12月21日にジョージア州議会はこの地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した[6]。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル (Marthasville) と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた[7]。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ (Atlantica-Pacifica) という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた[7]。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった[8]1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグレンジとを結ぶ鉄道が開通した[9]1860年には、町の人口は9,554人へと増えた[10]
南北戦争と再建

南北戦争時には、アトランタは鉄道交通・軍需品供給の中心地として重要な地であった。1864年5月、テネシーから州境を越えた北軍は、勝利を重ねながらアトランタを目指して南へと軍を進めた。ピーチツリークリークの戦いアトランタの戦い、エズラ教会の戦いなど、アトランタ方面作戦[11] と呼ばれるこれら一連の戦いにおいて、アトランタとその周辺、特に北側の地域は激しい戦闘の繰り広げられる戦場と化した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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