アディンクラ記号
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記録に残るアディンクラ記号

アディンクラ記号(アディンクラきごう)あるいはアディンクラ・シンボル(英: Adinkra symbols)は、概念格言を表すガーナの記号のこと。布地の模様やロゴ、陶器に広く使われ、建築の要素として壁などにも組みこむことがある。布地に木版スクリーン印刷を使っていくつも組み合わせて並べると、一種のサイン言語として機能した[要出典]。この記号を生み出したアカン族は通貨の代わりに砂金を用いて交易を行い、量を計る真鍮製の重りゴールドウェイト(en)にもアディンクラを刻んだ。あるいは小椅子にも施し、家具として、また儀式用の道具として使った。観光客相手のTシャツやアクセサリーなど、お土産品に使う新しい用途が生まれた。ひょうたんの殻に彫ったアディンクラのスタンプ

記号は単に装飾として見るか、昔ながらの伝統の知恵を記したものとみなすか。あるいは印象に残る刺激的なメッセージを読みとくか、生活や身の回りの自然を表した図案として楽しむか。まるで文化のカプセルのようにいくつもの役割を果たす記号は、ことわざと強く結びついて表意文字のように働くものが複数あり、意味はとても明確に伝わる。哲学者のクワメ・アンソニー・アピア(Kwame Anthony Appiah)によると「何を信じ、どう実践するか。複雑で微妙なニュアンスをうまく伝えた」手段の1つであったという[1]
歴史挿絵1:喪装用のアディンクラ(1817年製、大英博物館)

ジャマン出身のボノ族は、現在のガーナのアカン族の祖先にあたる。「アディンクラ」Adinkra という名前の由来は、記号の発明者とされる王族のナナ・クワジウォ・アジャマン・アディンクラ(Nana Kwadwo Agyemang Adinkra)の名前である。ボノ族の作る陶器や小椅子などを装飾し、ハンコ染めの布を着用したのはギヤーマン王に限定されたのに、他の部族との戦いに敗れ、やがて勝った側のアシャンティなどアカン王国系民族に広がっていく。

布をデザインしたボノの職人たちはアシャンティ人に技術を教えるほかなかった。記号を発明した王の長男アパウ王子はアディンクラを使いこなしたため、布に染めつける技術や記号の並べ方を伝える役目を強いられたという。アパウ王子はクマシに近い町でクワク・ドワクという男を弟子に取り、アディンクラの布染めを手ほどきしたという口承が残る[2][3][4][5] [6][7]。時が経つにつれ、アディンクラは古代のボンク王国系のさまざまな人々にも使われ、ファンティ族、アクアペム族、アキエム族などに普及していく。アカン人は文化伝承に主にアディンクラの記号を採用した。

ひょうたんの殻に記号を彫りつけてスタンプを作り、植物原料の染料を使ってハンコ染めにする。「挿絵1」の布に配置してある記号はおよそ15種類あり、星(nsroma)、ドノ族の太鼓2つ(dono ntoasuo)、ダイヤモンドなど。現在は大英博物館の収蔵品。挿絵2:アディンクラの布(1825年、ライデン国立博物館)

布地として歴史的に2番目に古い資料は「挿し絵2」の1825年の布である。オランダ領ゴールドコースト(英語版)司令官代理に任命されたF・ラストの指示に従い、エルミナ城から王室宛てに送られて王宮の「驚異の部屋」(ハーグ)に保管された。この布はエルミナ城代ファンティ・パラマウントがオランダ王子ウィリアム1世の命令として発注した特製品であるため、オランダ国章が中央に配してある。その他のモチーフは古いアディンクラの典型を示す。現在はライデン民族学博物館の収蔵品である[8]
アディンクラ

アカン語チュイ語)ではシンボルではなく布の方をアディンクラ(adinkra)と呼ぶ[9][10]。伝統的に、アディンクラ・シンボルは非常に細かな決まりに従って布に染め、また王族や宗教指導者のみ着用が許された。あるいはまた、布の色も着用する機会と着用者の役割(TPO)に応じて決まり、木綿の手織りの生地は生成色(染めていない布)か、赤色、暗褐色または黒に染め、そこに記号を手作業で捺染(スタンプ染め)した。現代は明るい地色の生地を使い、大量生産が当たり前になった[11]櫛を使い、模様を区切る線を平行に引く Anthony Boakye。ガーナ、ントンソ。


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