アテレコ論争
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アテレコ論争(アテレコろんそう)[1]は、俳優東野英治郎が『東京新聞』に発表したコラムを発端として起こった、アテレコ演技に関する論争である。目次

1 1924年の評論

1.1 時代背景

1.2 山本有三の意見

1.3 小山内薫の意見


2 アテレコ前史

2.1 1920年代

2.2 1930年代

2.3 1940年代

2.4 1950年代


3 1957年の評論

3.1 時代背景

3.2 大岡昇平の意見

3.3 福田恆存の意見


4 1962年の論争

4.1 時代背景

4.2 東野英治郎の意見

4.3 安部徹の意見

4.4 夏川大二郎の意見

4.5 その他の反応


5 アテレコ論争以後

5.1 1960年代

5.2 1970年代


6 1981年の評論

6.1 時代背景

6.2 福田恆存の意見

6.3 永井一郎の意見


7 現在へ

7.1 1980年代

7.2 1990年代

7.3 2000年代

7.4 2010年代

7.5 2020年代


8 脚注

9 関連項目

1924年の評論
時代背景

1924年5月、自由劇場(1909年?1919年)を主宰した小山内薫が、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場の開場に先立つ講演において、「日本の既成作家の脚本には何ら演出欲をそそられるものはない。われわれの劇場では当分翻訳劇のみを上演する」と発言する[2]。これにより劇作家文学者の反発を招き、劇壇と文壇の関係に影を落とす[3]。小山内の方針は他の創立同人にとっても寝耳に水であったが、その後の日本における演劇観ならびに文学観、更に役者観のみならず演技観に長く影響を与えて行く事となる[4][5][6]

同年6月、築地小劇場が小山内薫、土方与志浅利鶴雄友田恭助和田精汐見洋を創立同人として開場する。1か月後に青山杉作が加わる。研究生1期生(座員)として千田是也山本安英田村秋子丸山定夫ほか。後に滝沢修伊達信杉村春子細川ちか子東山千栄子村瀬幸子岸輝子高橋とよ薄田研二ら戦後の日本演劇に重きをなす人材を輩出している[7]

同年7月、新潮社の雑誌『演劇新潮』の7月号に『築地小劇場に就て』が掲載される。同誌の同人であった山本有三菊池寛吉井勇長田秀雄久保田万太郎久米正雄による同懇話会は、先日の小山内の発言に意見が集中し、結論を第一回公演の6月13日に持ち越した[8]
山本有三の意見

懇話会の出席者である山本は、フランスの劇作家であるエミイル・マゾオの戯曲『休みの日』(翻訳・小山内薫)の上演に対して、「こういう台本を土台にして、どうしてよい演出が望めよう。作の味とか人物の性格はさておいて、一つ一つの会話さえ満足に伝えることができないではないか」と感想を寄稿した。小山内のやっつけ仕事を責める一方で、「よい訳をよくやってくれるのなら大いにいい。今の日本ではそれは必要なことだ」と翻訳劇そのものへの理解も示している。なお、誤訳の指摘に関しては友人の岸田國士に深く負っている事を明記している。山本は東京帝国大学独文科、小山内は英文科、岸田は仏文科の出身であった。私は誤訳指摘が目的でないから、他の翻訳については口をつぐむが、しかしただこのことだけは言っておきたい。たとえ原語からの直接訳であっても、耳どおい訳語の羅列(られつ)では、戯曲の翻訳としては価値が乏しいということを。戯曲の訳は読んでわかっても、聞いてわからないようなものは、いい翻訳とは言われない。(中略)
こう考えてくると、翻訳劇をやるということは非常にむずかしいことである。演出やその他のことはまず別として、いい翻訳を得るということだけがすでに問題である。誤訳だらけだったり、せりふのいきの出ていないような翻訳ものをいくら上演してみたところが、あまり意義のある仕事とは思われない。築地小劇場は向後二年間翻訳劇ばかりやってゆくと称しているが、いったい翻訳について自信があるのであろうか。安心して舞台にかけられるような、確かな翻訳がそうたやすく得られると思っているのだろうか。思うような翻訳を得るためには、同人たちが訳すのが一ばん確かなこととも思われるが、同人の首脳と目せられる小山内氏の訳が前述の通りであると少し心ぼそい。翻訳ものばかりをやってゆきたいならそれもいいだろうが、しかし翻訳劇を専門にやってゆくとして、確かな訳本が二年間分もそろうであろうか。築地小劇場の欠陥はここにありはしまいか。 ? 築地小劇場の反省を促す[9]
小山内薫の意見

一方、小山内は『演劇新潮』の8月号に「山本有三君その他演劇新潮の同人諸君に読んで考えて貰う」と題して、「演劇の為に」「未来の為に」「民衆の為に」の三項目による反論を行った。A 演劇の為に
築地小劇場は――総ての劇場がそうであるように――演劇の為に存在する。
築地小劇場は演劇の為に存在する。そして、戯曲の為には存在しない。
戯曲は文学である。文学の為に存在する機関は新聞である、雑誌である、単行本である――印刷である。
文学の為に存在するものは劇場ではない。
戯曲――即ち文学――を味わうには、閑寂な書斎ほど好いところはない。
劇場は演劇を提供する機関である。
劇場は戯曲を紹介する場所ではない。
築地小劇場は演劇の為に戯曲を求める。戯曲の為に戯曲は求めない。
築地小劇場は演劇として価値のあるものを提供したいと祈願している。築地小劇場が使用する戯曲の価値は、文学の批評に任して置く。
築地小劇場の価値は、それが提供する演劇の価値である。それが使用する戯曲の価値ではない。
? 築地小劇場は何の為に存在するか
[10]

この後、小山内、土方と『演劇新潮』の同人で話し合いが行われ、劇壇側は西洋の芝居に限定しない事と日本の将来の芝居の為に存在している事を明言した[8]
アテレコ前史
1920年代

1925年3月、NHKの前身である東京放送局により日本初のラジオ放送が開始される[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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