アティス=モンス
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Athis-Mons




行政
フランス
地域圏 (Region)イル・ド・フランス地域圏
(departement)エソンヌ県
(arrondissement)パレゾー郡
小郡 (canton)小郡庁所在地
INSEEコード91027
郵便番号91200
市長任期)クリスティーヌ・ロディエ
2014年-2020年
自治体間連合 (fr)メトロポール・デュ・グラン・パリ
人口動態
人口29 831人
2011年
人口密度3485人/km2
住民の呼称Athegien
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度42分27秒 東経2度23分20秒 / 北緯48.707367度 東経2.388938度 / 48.707367; 2.388938座標: 北緯48度42分27秒 東経2度23分20秒 / 北緯48.707367度 東経2.388938度 / 48.707367; 2.388938
標高平均:m
最低:32m
最高:92 m
面積8 56km2 (856ha)
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公式サイト ⇒www.mairie-athis-mons.fr
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アティス=モンス (Athis-Mons)は、フランスイル=ド=フランス地域圏エソンヌ県コミューン
地理

アティス=モンスはエソンヌ県北部にあり、かつてのウルポワ地方(fr)の境界にあたる。フランス国道のゼロ地点であるノートルダム大聖堂の南東約17kmにある。

コミューンはL字をおよそ反転させたかたちをしている。コミューンの面積約70%が都市化されており、田園と呼べる部分は全体の2割にも満たない(オルジュ川に面した丘の森林地帯、オルリー空港の北に広がる草地など)。
歴史17世紀のカッシーニ地図に描かれたアティス空からの町並み

アティスとは、ラテン語のアッテギア(Attegia、ヨシで覆われた小屋)から派生した名称である。モンスとはラテン語のモンティス(Montis、とがった丘)から派生した。

切り出された石と新石器時代のものである槍の先端は、当時から人が定住していたことを証明している。発掘されたものの中には、メロヴィング朝時代のサルコファガスもあった。アテギアム(Athegiam)とアティス=モンスの最も古い名前が登場したのは、9世紀のヴァイキング襲撃についての記録上である。10世紀には、モンスという名称が、サン=マリョワール修道院へカペー家が領地を寄進した記録の中で引用されていた。

1140年、パリ司教エティエンヌ・ド・サンリスは、アティスの教区を聖アウグスチノ修道会へ委託した。この時からサン=ドニ教会の建設が始まったとみられている。1230年3月、ルイ9世は、自らのグラン・パネティエ(fr、宮廷の要職の一つで食品保管庫官)であるユーグ・ダティスとともにアティスに滞在した。1305年、アティス=シュル=オルジュ(Athis-sur-Orge、当時の地名)にて、フランス王国フランドル伯間のアティス=シュル=オルジュ条約が結ばれた。シャルル6世治世の末期、アティス荘園はシュヴァリエ・ド・モントネーに属していた。1423年、イングランド王ヘンリー6世はアティスをギヨーム・ド・フェルタンへ与えた。フェルタンは主君たるシャルル6世と祖国を裏切り、イングランドの同盟者であるブルゴーニュ公フィリップ3世配下の者たちにパリ占領を勧めたのである。15世紀にアティスに封建領主の城が建てられたが、のちに壊された。1610年、パリ高等法院総裁ピエール・ヴィオルがアティスの荘園を所有した。17世紀、ラ・ブルス家がアティスの領地を買い、アティス城を建てた。1743年、アンヌ・ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン=コンデ(コンデ公アンリ3世の娘)がアティス荘園を購入した。当時、モンスの丘陵ではワイン用ブドウが栽培され、アティスでは穀物生産が行われていた。

フランス革命中の1793年、アティス=シュル=オルジュと、モンス=シュル=オルジュはコミューンとなった。2つのコミューンは人口300人ほどと似通っていた。1815年、第七次対仏大同盟軍がアティスに多大な損害を与えた。1817年、アティス=シュル=オルジュと、モンス=シュル=オルジュの2つのコミューンが統合された。1825年、大きな金属加工工場が移転してきた。1841年、パリ=ボルドー線(fr)がセーヌ右岸に建設され、1864年から1884年にかけジュヴィシー=シュル=オルジュに大きな操車場がつくられ、地元で作られた部品が使われる機会が開けた。1865年、イエズス会がアティス城の所有者となり、サン・シール陸軍士官学校エコール・ポリテクニークの準備学校を城内に設置した。


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