アッルーリ・シータラーマ・ラージュ
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アッルーリ・シータラーマ・ラージュ
アッルーリ・シータラーマ・ラージュ像(タンク・バンド・ロード)
生誕1897年または1898年7月4日
イギリス領インド帝国 マドラス管区ビーミュニパットナム
死没1924年5月7日(25-26歳没)
イギリス領インド帝国 マドラス管区コユル
死因銃殺刑
墓地 インド アーンドラ・プラデーシュ州クリシュナデヴィペタ
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アッルーリ・シータラーマ・ラージュ(英語:Alluri Sitarama Raju、テルグ語:??????? ???????????、1897年または1898年7月4日 - 1924年5月7日)は、インド革命家[1]。アッルーリ・シータラーム・ラージュとも表記される。

現在のアーンドラ・プラデーシュ州に生まれたラージュは、イギリスによる植民地支配に対抗して、アディヴァシ(英語版)(先住民)らを率い、あるいは各地で味方につけながら、ゲリラ的な武装蜂起を展開した。イギリス側は反乱鎮圧のために多額の費用を費やし、特殊部隊を投入した末、2年後にようやくラージュを捕らえた。彼はただちに銃殺刑に処されその短い生涯を終えたが、独立運動を含め後世に影響を与えた。
生涯
幼少期ラージュの生家(アーンドラ・プラデーシュ州)

アッルーリ・シータラーマ・ラージュは、現在のインド、アーンドラ・プラデーシュ州テルグ語を話す家庭に生まれた。父親のヴェンカタ・ラーマ・ラージュはプロの写真家で、ラーラー・ラージパト・ラーイ(英語版)やバール・ガンガーダル・ティラクといった国民会議派の指導者たちとも親交があった。彼は仕事のためにラージャムンドリーに居を構えた。母親のスーリヤ・ナラヤナムマは信心深い主婦であった[2][3][4]

生年月日については議論があり、1897年7月4日とする文献もあれば[5][6]1898年7月4日とする文献もある[2][7]。出生地の詳細については、ビーマヴァラム[2]、西ゴーダーヴァリ地区のモガール村[6][8][9]など様々な説があったが、より新しい報告によれば、ビーミュニパットナムのPandrangi村が正確な出生地であるとされている[10]

父親のヴェンカタは奔放で、自尊心にあふれ、自由を愛する人間だった。ある時、幼い息子を叱ったことがある。その理由は、インド人がヨーロッパ人に敬礼し、彼らの優位性を認めるという当時流行していた習慣を実践したためであったという。息子が8歳の時に、彼は亡くなっている[5]
学生時代

ラージュは初等教育を終えるとカキナダの高校に入学した。そこで、後に著名なインドの革命家となるMadduri Annapurnaiah(1899年-1954年)と友人になっている。父親の影響もあって愛国的な考え方を早いうちから持っており、13歳のラージュは、友人からイギリスのジョージ国王の肖像が描かれたバッジをもらうと、1つを除いて全部投げた。それをシャツに留めて、こう言ったという。「これをつければ我々の隷属を誇示することになる。でも僕は、外国の支配者が我々の生活を抑圧していることをみんなに思い起こしてもらうために、シャツの胸の近くの部分に留めたのだ」[11]

10代のころ寡黙な性格であったラージュは、サニヤスとなる(出家する)ことも考えていたという。15歳の時、母の故郷ヴィシャーカパトナムに移り住み、Mrs. A.V.N. Collegeに入学した。この時期、彼はしばしばヴィシャーカパトナム地方の周縁地域を遠くまで訪れ、そこに住む部族の人々の苦難に触れていた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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