アッバース1世
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アッバース1世
??? ???? ????
サファヴィー朝
シャー

在位1588年 - 1629年

出生1571年1月27日
イラン帝国ヘラート
死去1629年1月19日
イラン帝国マーザンダラーン
埋葬カーシャーン
子女ムハンマド・バーキール・ミールザー(サフィー1世の父)
王朝サファヴィー朝
父親ムハンマド・ホダーバンデ
母親ハイルン・ニサー・ベーグム(ペルシア語版)
宗教イスラム教シーア派
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アッバース1世(ペルシア語: ???? ???‎、1571年1月27日 - 1629年1月19日)は、サファヴィー朝の第5代シャー(在位:1588年 - 1629年)。第4代シャー・ムハンマド・ホダーバンデとハイルン・ニサー・ベーグム(ペルシア語版)の子。アッバース大王(ペルシア語: ??? ???? ????, ラテン文字転写: ?ah ?Abb?s-e Bozorg)と称される。
生涯
即位と軍制改革アッバース1世

1572年、わずか1歳にして祖父のタフマースブ1世からイラン北東部のホラーサーン総督に任命された。これは父がホラーサーンの軍事貴族(クズルバシュ)と衝突、ファールスへ転属した父の後任としての人事異動だった。幼いアッバースに代わりクズルバシュが万事を取り仕切り、アッバースはホラーサーンでクズルバシュの保護の下で生活していった。

1576年に祖父が死去して後継者争いが始まり、即位した叔父イスマーイール2世が翌1577年に急死すると父がシャーになったが、盲目で政治が出来ない父に代わり母が実権を握り、クズルバシュと対立しながら政治を行っていたが、アッバースはそれらと無縁のままホラーサーンに留め置かれた。

しかしこの頃、王朝は大帝スレイマン1世のもと最盛期を迎えたオスマン帝国の侵攻(第一次オスマン・サファヴィー戦争(英語版))にあってアゼルバイジャンイラクを失い、衰退していた。第一次オスマン・サファヴィー戦争は既に祖父の代で和睦が成立していたが、サファヴィー朝が混乱状態にあることを好機と見たオスマン帝国がイランへ侵攻(第二次オスマン・サファヴィー戦争(英語版))、母がクズルバシュに暗殺されるなどサファヴィー朝は危機を迎えた。

そのような時、アッバース1世は1588年、ホラーサーンのクズルバシュに擁立されてクーデターを起こし、父を退位させて17歳で即位した。アッバース1世はサファヴィー朝を建て直すため、まずは内政改革を行なう。王朝創建以来、権力を牛耳っていたクズルバシュを弾圧して政治から遠ざけ、代わって奴隷身分の優れた人材を多く登用したのである。地方長官にも家柄ではなく能力が重んじられて、奴隷階級出身者が数多く地方長官に任じられている。
イスファハーン遷都アッバース1世

1598年にはカズヴィーンからイスファハーン遷都する。新都と旧市街の中間に「王の広場」を中心に「王のモスク(ペルシア語版)」(現イマーム・モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達した。

アッバース1世の治世のもとでイスファハーンは壮大華麗、大いなる繁栄を遂げたため、「世界の半分」(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)とまで称された。
ウズベクの討伐

また、1598年中央アジアのブハラ・ハン国シャイバーニー朝アブドゥッラーフ2世が死ぬと、その衰退に乗じて、帝国の北西方面を脅かしていたウズベク族を討伐し、ホラーサーン地方を奪った。これにより、北西方面の国境が安定したため、オスマン帝国との対決が可能となった。
オスマン帝国への勝利

こうして内政、外政を整えたアッバース1世は、1603年いよいよオスマン帝国への対外遠征に臨みた(第三次オスマン・サファヴィー戦争(英語版))。メフメト3世アフメト1世らと戦い、奪われていたアゼルバイジャンを取り戻した。さらにタブリーズなどイラクの主要都市を奪還し、オスマンとの戦いを優位に進めた。1612年、オスマン帝国とナスフ・パシャ条約(ペルシア語版)を結び、アマスィヤ条約の時の国境に戻し、オスマン側に絹を送ることになった。1615年にサファヴィー側はナスフ・パシャ条約を破棄し翌年に戦争が再開した。1618年に自国有利の和睦を結び、アゼルバイジャンなどの支配権を認めさせた。その後、1623年オスマン帝国と再び戦争を再開してからバグダードを奪還(ペルシア語版)し、100年ぶりにサファヴィー朝の領土を取り戻した。こうして、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎えた。
ホルムズ島の奪還詳細は「ペルシア・ポルトガル戦争」を参照

さらにイングランド王国ジェームズ1世)と結び、ロバート・シャーリーの指導のもとで武器が近代化されると、1622年ポルトガル王国と戦ってホルムズ島を奪った(ホルムズ占領)。


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