アッシリア人
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この項目では、現代の民族アッシリア人について説明しています。古代アッシリア人については「アッシリア」をご覧ください。
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出典検索?: "アッシリア人" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年12月)

アッシリア人
?????? / S?ry?y?/Suryoye シリア正教会修道院での祝祭を写した写真の葉書。20世紀初頭のオスマン帝国領モスル(現イラク)にて。
総人口
約330万人
居住地域
 イラク150,000人 - 830,000人
 シリア52,000人 - 735,000人
 イラン10,500人 - 103,000人
 トルコ4,000人 - 15,000人[1]
 アメリカ350,000人
 スウェーデン120,000人
 レバノン100,000人
 ドイツ90,000人
 ブラジル80,000人
 ヨルダン44,000人
 オランダ40,000人
 オーストラリア38,000人
 インド30,000人
 カナダ23,000人
 イギリス8,000人
 ロシア14,000人
 ジョージア23,000人
 アルメニア15,000人
 カザフスタン540人
言語
アラム語(現代アラム語シリア語)、居住地域によってはアラビア語ペルシア語トルコ語なども併用
宗教
ほとんどがキリスト教アッシリア東方教会カルデア教会シリア正教会など

アッシリア人(アッシリアじん)とは、アラム語の1つ現代アラム語を話しキリスト教を信仰する中東少数民族。古来からアラブ人トルコ人クルド人トルクメン人などの異民族との競合や迫害を受けながらも、強固な民族意識により伝統的な文化を継承している。

「シリア人」という意味の「スリョイェ」(アラム語: ??????‎, S?ry?y?, Suryoye)を自称するが、シリア・アラブ共和国の国民との混同を避けるため、以下アッシリア人という表記を用いる。ドイツなどではアラム人(Aramaer)と呼ばれる。なお、古代アッシリア人との遺伝的関係は明らかになっていない。
分布

主にイラク北部とシリア北東部、イラン北西部、トルコ東南部にまたがる地域に住み、自身はこの地域をベート・ナハライン(アラム語: ??? ??????‎ Bet Nahrain。「2つの川(=ティグリス川ユーフラテス川)に挟まれた地域」の意。ギリシア語メソポタミア〈Μεσοποταμ?α〉の語源)と呼ぶ。同時にこの地域はクルド人の住むクルディスタンとほぼ重なっている。
イラクアルコーシュの町

最も多くのアッシリア人を抱えるイラクでは、アッシリア東方教会とカルデア教会の信徒らが首都バグダードと北部クルディスタン地方のアルビールドホークニーナワーの3県とキルクーク市、特にアルビール県のアルコーシュ( アラム語: ?????‎ Alqosh、アラビア語: ?????‎ Al Qush)という町に集中、クルド人トルクメン人と共存している。ちなみにニーナワーの語源は古代アッシリアの首都ニネヴェである。
シリア

国全体では約70万人が住んでおり、特にトルコと国境を接する北部のカーミシュリーという町を中心におよそ3000人が集中している。シリア正教会の信徒が多い。
トルコアッシリア人の民族衣装を着る子供

国内に約1万5000人が住んでおり、特に経済の中心イスタンブールや首都アンカラ、東南部(クルディスタン)のハッキャリ県と、シリアと国境を接するマルディン県の丘陵地帯トゥル・アブディン(アラム語: ??? ?????‎ Tur Abdin)地方に集中している。トゥル・アブディンのアッシリア人はトゥロヨ(アラム語: ?????‎ Turoyo。トゥル風、トゥルの人という意味)と呼ばれる西シリア語の一方言を話すことで知られ、シリア正教会の信徒が多い。そのため現地ではスルヤーニー(: Suryani。複数形:Suryaniler。シリア人の意)と呼ばれる。

なおマルディン県のヌサイビン市(: Nusaybin)はかつてニシビス(Nisibis)と呼ばれ、異端とされたネストリウス派教団がビザンツ帝国エデッサから移ってきた際に本拠地とした場所である。

またディヤルバクル県ヴァン県など東南部の他の地域にも少数が住んでいるが、大半は後述のオスマン帝国による虐殺や近年のクルド人民族主義者などの攻撃により殺されたり国外へ追放されたりしたため、現在では数世帯しかアッシリア人が住んでいない村もある。
イラン

首都テヘランと北西部、特に西アゼルバイジャン州の州都オルーミーイェ(英語名ウルミア Urmia。アラム語のウルミー ?????? Urmi が語源とされる)を中心に国内に約2万人(1987年。イラン国内の全人口の1%以下)が住んでいる。

オルーミーイェ湖周辺のアッシリア人は第一次世界大戦中の1914年、オスマン帝国軍に率いられたクルド人兵士とアゼルバイジャン人兵士らによる虐殺をアルメニア人とともに受けた。これに対しアッシリア人側はアルメニア人とともにアーガー・ペトロス(w:Agha Petros)率いる自衛軍を結成、一時期はトルコを退けたものの、協力していたロシア軍も革命の勃発により撤退、さらにはアルメニア人兵団の壊滅や物資不足により大敗。1918年にはトルコによるさらなる迫害を受けることとなり、街の人口のほとんどがクルド人とアゼルバイジャン人に取って代わられることになった。

後にパフラヴィー朝(イラン帝国)の初代皇帝レザー・シャーの統治下では、領内のアッシリア人に対しシリアやトルコに戻るよう勧奨があり、数千人が帰還したことがあった。イラン革命以前の1976年には3万2000人が暮らしていたが、イラン・イスラム共和国の成立により迫害を受け、多数が亡命した。


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