アッシニア
[Wikipedia|▼Menu]
額面200リーヴルのアッシニア(1790年4月), 非常割引金庫(Caisse de l'Extraordinaire)発行と記されている, 番号などは手書き額面500リーヴルのアッシニア(1790年9月), 肖像はルイ16世1791年11月発行5リーヴル紙幣(コルセ(Corset)の名前でも知られる)額面15ソルのアッシニア, 計算法が異なるためやや複雑だが、3/4リーヴルを意味する(1792年1月)額面5リーヴルのアッシニア(1792年)額面5リーヴルのアッシニア(1793年)額面100フランのアッシニア。アッシニア紙幣(一部除く)には「国有地を抵当とする(Domaines nationaux)」という文言が額面に表記されている。(1795年)

アッシニア(: Assignat, フランス語発音: [asi?a] 発音例)とは、1789年12月19日から1796年3月10日までの間、フランス革命期のフランスおよびその姉妹共和国で使用された紙幣である。もともとは土地債券で、利子付きであり、担保も設けられた公債であったが、歳入正貨の著しい不足から、不換紙幣として強制流通されることになった。しかし激しいインフレを引き起こして、経済と革命とを大混乱させ、最終的には廃止された。カナ表記は原語の発音に忠実なアシニャのほか、アシニア、アッシニャともされる。
概要

アッシニアとは、もともとアシニャシオン(: Assignation)という「支払いに充当すること」を意味するフランス語からの造語[1]で、為替手形であり、一定の収入を抵当[注釈 1]とする債券であった。当時のフランス人の生活においては、この種の有価証券はよく見られた一般的なもので、旧体制で将来の税収を担保にした徴税請負人手形と同じような、あるいはもっと確実なものと当初は見なされた。

しかし憲法制定国民議会が同時に銀単本位制を導入したこともあって、アッシニアは正貨に対しては初めから不利な取引となった。そして政府信用の欠如、革命戦争の勃発、過剰な増刷、イギリスによる政策的な偽札の大量密輸など、様々な理由から人々は紙幣を信頼しなくなり、インフレを引き起こした。これは正貨を多く持てない市民(サン・キュロット)の生活を逼迫させ、ブルジョワジー支配の政治への強い不満の原因となり、特に商業への不信感を募らせ、革命を極左化させた。公安委員会政府統制経済で抑制を図るとともに、正貨を回収して輸出入を取り締まり、アッシニアを強制流通させて唯一の政府紙幣とすることで沈静化を図った。これらは一定の効果があり、最大約5分の1まで減価したアッシニアは一時的に半分ほどに回復した。

しかしテルミドールのクーデター後、自由主義経済に戻ると、通貨政策は再び崩壊し、アッシニアは1795年にハイパーインフレを起こした。総裁政府は増刷に増刷を重ね、紙幣の信用は失われて経済は破壊された。通貨単位をリーヴルからフランに変え、さらにデノミネーションを行ったが効果はなかった。発行総額はついに450億フランにも及び、最高時には340億フランが流通していた[2]。アッシニア増刷依存の悪循環から抜け出す最後の策として、政府は1796年3月10日にアッシニアの廃止を決断し、これ以上刷れないように造幣工場の印刷板を破棄した。しかし財政難のためにアッシニアの償還は先送りされたため、結果として金属貨は極端に不足し、一部では外国貨までが使用される始末で、経済は混乱した。財源のない政府は新紙幣としてマンダ・テリトリオ(地券) (Mandats territoriaux) [注釈 2]を新たに発行して、これとの交換という形で市場からアッシニアの全面回収に着手した。しかしマンダ・テリトリオは、紙切れ同然となったアッシニアを大量に保有する裕福なブルジョワジーのために国有地と交換する権利を付与してやったに等しい行為であったので、バブーフの陰謀[注釈 3]に見られるように国内の激しい反発を招いた。このために1797年2月7日にマンダ・テリトリオも廃止された。アッシニアは価値を失っていたが、回収は総裁政府が倒れるまで続けられた。

ブリュメールのクーデターの後、フランスは正貨に逆戻りし、統領政府においては金銀複本位制が導入された。新政府は旧総裁政府の負債9,000万フラン[3]の大部分の引き継ぎを拒否した。債務不履行による破産政策は、旧体制から続くフランス政府の債務削減の常套手段であった。ナポレオンは紙幣を好まず、彼の治世では新紙幣は創られなかった。
歴史
発行の経緯

フランス王室財政の危機がフランス革命の直接の引き金となったが、革命以後もそれは改善するどころかより一層深刻化した。ネッケルは財務長官に復帰したが、すぐに無力ぶりをさらけ出したからである。革命はフランス国家の信用を低下させたので、彼が発行した3,000万リーヴルの公債には買い手がつかずに、わずか250万リーヴルの応募があっただけだった[4]。財政は、割引銀行(ケース・デスコント) (fr:Caisse d'escompte) [注釈 4]からの借款、つまり公衆に貸し付けることができなかった公債を銀行家に引き取らせて強制流通させることによって、国庫の不足を肩代わりさせていた。しかしすでに銀行券は1億1,400万リーヴルも発行されており、その内の2,750万リーヴルは無担保で、信用貸しは国家の保証に依存しているのみで、金銀塊の保有額は法定限度の4分の1以下まで減り、これ以上は割引銀行から資金を捻出させることは不可能であった。ところが、民衆への食糧供給のためにすぐに外国から大量の小麦を買わねばならなかった。

また1789年8月4日の夜の宣言で間接税が廃止されて歳入は減少したが、土地台帳の不備で、それに代わる新税(直接税)の徴収が上手くいっていなかった。税は順調に徴収されたとしても5億リーブルに満たなかったが、特権廃止の補償で直接的に負担は10億リーヴル以上も膨らんだ。債務総額は累積分と合わせて42億6,200万リーヴル(ただしこの内の15億ほどは健全な債権)にも及び、その利子だけで年に2億6,200万リーヴルと計算されたのに、11月2日に教会財産国有令の結果およびその後の法令(1790年3月17日4月17日の法令)で、国家が払うべきとされた教会礼拝額として7,000万リーヴル、僧侶達への年金5,000万リーヴルが、さらに歳出に加えられた。ブルボン王家の所有する貴金属[注釈 5]は喩え全てを鋳潰してもこれには遠く及ばなかったので、このように膨らんだ支出に対応するには紙幣の発行以外に方法はなかった。

11月14日、ネッケルは割引銀行を国立銀行(中央銀行)とすることを提案した。これによって資金運用を円滑にし、2億4,000万リーヴルの国家保証された新銀行券を発行しようとしたのである。しかし憲法制定議会はジョン・ローのシステムの失敗[注釈 6]を思い出してこの提案を退けた。支払い能力のない国家では保証がないのと同じで、保証のない新紙幣は価値を持たないと考えたのである。一方で、紙幣の発行は避けられなかったので、1ヶ月前のタレーランの提案が思い出され、活用が棚上げとなっていた国有化された教会土地財産の売却益を担保とすることが決議された。

1789年12月19日、憲法制定議会は財産管理機関として非常割引金庫を立ち上げた。手始めに年金支払いあての財源として、発行額4億リーヴルとするアッシニア紙幣の発行を始めた。これは200リーヴル、300リーヴル、1,000リーヴルの三種類の土地債券で、利子が5%付いていた。販売対象は投資する特定の資本家で一般向けではなかった。第一回のアッシニアは、回収予定も立てられていて、そもそも支払い財源となる教会土地財産というのは評価額30億リーブルは楽にあったので、非常に控えめな発行額であった。しかし当時はまだ教会の土地に僧侶たちが住んでおり、抵当権が取り除かれていないので土地の売却の見込みが立たないという理由で、買い手はなかなかつかなかった。アッシニアの流通が上手くいかないことがわかると、資金繰り見通しの不安から、割引銀行の銀行券の価値は大きく下がり、逆にルイ金貨 (Louis d'or) [注釈 7]には30スーのプレミアムが付いた。

そこで議会は、第一回発行のアッシニアを廃止して、土地と交換可能な兌換紙幣のような新しいアッシニアとして再発行することにした。1790年4月17日に発行された第二回のアッシニアは、300リーヴル、1,000リーヴルの高額の補助紙幣で、利子は3%以上は付けられず、利息は年末に最後の所有者に支払われ、途中の所有者にも転売の際に日割計算で保有期間の分が価格に割増されて支払われる予定だった。土地兌換ということは、実質的には土地の売却と同じだったが、目に見える保証が付いたことでアッシニアは信用力が増し、確かな紙幣として流通し始めた。こうなると議会はこれで負債を返済しようと考えた。宙に浮いていた教会土地財産の売却を一気に進めることもできるはずだった。もはや利子は必要なかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:62 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef