アッシジ
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アッシジ
Assisi

行政
イタリア
ウンブリア
県/大都市 ペルージャ
CAP(郵便番号)06081
市外局番075
ISTATコード054001
識別コードA475
分離集落#行政区画参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
気候分類zona E, 2198 GG
公式サイト ⇒リンク
人口
人口28,352 [1] 人 (2018-01-01)
人口密度151.7 人/km2
文化
住民の呼称assisani
守護聖人san Rufino
祝祭日8月12日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度04分12秒 東経12度37分03秒 / 北緯43.07000度 東経12.61750度 / 43.07000; 12.61750座標: 北緯43度04分12秒 東経12度37分03秒 / 北緯43.07000度 東経12.61750度 / 43.07000; 12.61750
標高424 (184 - 1290) [2] m
面積186.84 [3] km2
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ペルージャ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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アッシジ(イタリア語: Assisi)は、イタリア共和国ウンブリア州ペルージャ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約2万8000人の基礎自治体コムーネ)。

フランシスコ会の創設者である聖フランチェスコの出身地として知られており、キリスト教の巡礼地としての性格を持つ都市でもある。フランチェスコの名を冠した聖堂やフランシスコ会関連施設は「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として世界遺産に登録されている。
名称

Assisi は、標準イタリア語において [as?sizi] [注釈 1]と発音される。これはカナ転記した場合には「アッスィーズィ」が近い[4]。一方、地元ウンブリア(ウンブリア方言 (it:Dialetti umbri) )においては「アッスィスィ」が近い発音とされる[5]

日本語文献では一般に「アッシジ」[5][6][7][8][9]表記が多い。このほか、「アッシージ」[5][10]、「アシジ」[5]など多様な表記ゆれがある。
地理
位置・広がり

ペルージャ県の中部に位置するコムーネで、スバシオ山(英語版)の西麓にあたる。丘陵上に築かれたアッシジの市街は、県都ペルージャから南南東へ約19km、リエーティから北へ約77km、アンコーナから南西へ約95km、首都ローマから北へ約131kmの距離にある[11]

自治体(コムーネ)としてのアッシジ市は、郊外部をその範囲に含み、市域面積は 186.84 km2 に及ぶ。
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

ヴァルファッブリカ - 北

ノチェーラ・ウンブラ - 北東

ヴァルトピーナ - 東

スペッロ - 南東

カンナーラ - 南

ベットーナ - 南西

バスティーア・ウンブラ - 西

ペルージャ - 西

歴史
先史・古代

紀元前1000年ごろ、アッシジ周辺を含む、ティベレ川上流域からアドリア海にかけての地域に最初の移住者が現れた。ウンブリア人 (Umbri) と呼ばれるかれらは、高台の上に要塞化した小さな集落を築いた。紀元前450年ごろには、エトルリア人がこれらの集落を徐々に奪っていった。

紀元前295年ローマ人センティヌムの戦いで中部イタリアを支配下に置いた。ローマ人たちはスバシオ山麓の台地にアッシシウム(Asisium)の街を築いた。当時のローマ人の遺跡は、現在も城壁や広場(フォルム、現在のコムーネ広場 Piazza del Comune)、劇場、円形闘技場、ミネルヴァ神殿などに見ることができる。なお1997年には、当時のローマ人の村が、あたかもポンペイを思わせるような良好な状態で発掘されており、モザイクやフレスコ画で飾られた部屋が確認された。

紀元前217年、ローマと敵対したカルタゴの将軍ハンニバルがローマに向かって軍を進める途中で、この町を通る際、他の都市と違って、同盟を維持したことに感謝したローマはアッシジにミネルバ神殿など数々の神殿を建てている[12]

238年、アッシジの街はルフィヌス(ルフィノ) (en) 司教の働きによりキリスト教に改宗した。ルフィヌスはコンスターノ( (Costano) 、現在はバスティーア・ウンブラ分離集落)で殉教するが、伝承によればアッシジ聖堂( (en) , サン・ルフィーノ聖堂)はその墓の上に建てられたという。
中世14世紀の画家ピエトロ・ロレンツェッティのフレスコ画

545年、東ゴート王国トーティラは街の大部分を破壊した。アッシジはその後ランゴバルド王国の支配下に入り、その後はフランク人スポレート公国の支配下に入った。

11世紀、この街は独立した都市国家となりギベリン(皇帝派)の立場を取ったが、このためゲルフ(教皇派)のペルージャとは激しく抗争する関係にあった。若きジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(のちのアッシジのフランチェスコ)が捕虜となったポンテ・サン・ジョヴァンニの戦いも、こうした抗争の中の一幕である。


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