公用語アチェ語
マレー語
アラビア語
宗教イスラム教スンニ派
首都クタラジャ
スルターン
1496年 - 1528年アリ・ムハヤット・シャー
1636年 - 1641年イスカンダル・サニ
1874年 - 1903年ムハンマド・ダウド・シャー
変遷
建国1496年
オランダによる支配1903年
アチェ王国(アチェおうこく、Kesultanan Aceh) は、現在のインドネシア共和国スマトラ島のアチェ特別州にあったイスラム王国。16・17世紀にこの地域で大国となったがその後は衰退した。首都はクタラジャ(現在のバンダ・アチェ)。 最盛期には、マレー半島両岸にあったジョホール王国やポルトガル領マラッカ
(ポルトガル語版)やパタニ王国の強敵で、マラッカ海峡での貿易の支配と主要な輸出品たるコショウ・スズの統制を企み、ジョホールとマラッカに対し3度の遠征を試みている(ただし全て失敗している)。相当の軍事力を擁していた一方で、イスラム教学と貿易の一大中心地でもあった。15世紀中頃、アチェの支配階級はイスラム教に改宗した。[1] アチェ王国を建国したアリ・ムハヤット・シャーは、1520年、北スマトラへの領土拡大を図り[2]、デリ(現・デリ・スルダン県周辺)、ピディ、パサイなどを支配下に置いた。アルにも攻撃をしている。彼の息子アラウッディン・アルカハル(英語版)はさらにスマトラ島南部へ領土を広げた。またマラッカ海峡の対岸へ足場を得ようとして、オスマン帝国スレイマン1世からの武器人員の援助を受け[1]、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカへ何度も攻勢をかけたが、これはあまり成功しなかった[3] 。
王国内部で抗争が起きたため、イスカンダル・ムダ(英語版)が王位に就く1607年まで、強力なスルタンは出現することはなかった。イスカンダル・ムダはスマトラ島の大部分を制圧し、マレー半島のスズ生産地たるパハンも支配下に入れた。その勢いは、1629年のマラッカへの遠征においてアチェの海軍が破れることで終わりを告げた。この遠征においてポルトガルとジョホール王国によりアチェ側の艦艇は全滅し、1万9千人がポルトガルの捕虜となった[4] [5]。
しかしながら、アチェ陸軍は敗北せず、数年足らずでクダを征服し、多くの住民を捕虜にしてアチェへ連れ帰った[5]。義理の息子にあたるパハンの元皇子イスカンダル・サニが、ムダの跡を継いだ。イスカンダル・サニの治世中は、内政強化と信仰の統一が重点的に行われた。
イスカンダル・サニの治世ののち、王国は4代にわたって女王により統治された。しかし征服された国々の住民を人質に取るという前王時代の政策[5]の結果、被征服民が強く独立を求めるようになった。そしてアチェの国力は弱まり、一方で地方の有力者が権力を握っていった。結局、王国は象徴的な存在となってしまった[6]。1680年代にかけては、ペルシア人旅行者が北スマトラについて「すべての地方が別々の王もしくは統治者を保護しており、そして地方の支配者すべては自立していてどのような権威に対しても敬意を払わない。」と述べている[7]。
文化と経済バンダ・アチェの大モスク、「マスジット・ラヤ・バイトゥルラーマン」
ローマカトリックの ポルトガル人によって東南アジアで最初のムスリム国家たるパサイが征服された後、アチェ人は自分たちのことを、パサイの後継者であるとみなし、マラッカでのイスラム教の布教活動をパサイに代わって継続した。アチェは「メッカのベランダ」と呼ばれ、クルアーンや他のイスラムの書物がマレー語へと翻訳されるイスラム教学の中心地の一つとなった[1]。アチェにおける著名な学者としては、神秘主義思想家のハムザ・ファンスーリーや、パサイ出身のシャムスッディン・パサイ、シンキル(現・アチェ・シンキル県周辺)出身のアブドゥル・ラウーフ、インド人のヌルディン・アル=ラニリ(英語版)が挙げられる[8]。
アチェは、胡椒、ナツメグ、クローブ、ビンロウジ[9]、そして1617年に征服したパハンからのスズ、これらの輸出によって富を増やした。